日新館にっしんかん

JR磐越西線広田駅から東北に約1.4km、江戸期の会津藩の藩校であった日新館を1987(昭和62)年に復元したもので、会津若松市街を見下す高塚山にある。かつての藩校*があった場所は鶴ヶ城の西出丸(馬場郭)濠端の米代(よねだい)であるが、現在、その場所には日新館天文台跡を残すのみである。日新館は白虎隊の出身校としても知られる。
 復元された現在の施設は、2万7,360m2の敷地に大成殿*・大学*のほか、各種の武道場などが建ち並び、博物館、研修・宿泊施設、映画撮影所などを兼ねている。会津の物産を陳列販売する「ふる里おこし館」や、武家料理などを楽しめる「楽故亭」もあり、藩校時代の教育の様子を見学できる。
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みどころ

「ならぬことはならぬ」で知られる「什の掟」など、会津藩の武士道の魂がどのように醸成されたかが、復元された施設や展示物によって良く理解でき、会津藩がいかに人材育成に力を注いだかも窺い知れる。
 また、体験型の施設でもあるので絵付け、弓道、坐禅、茶道などにも挑戦することができる。予約や最小人数が決められているものがあるので、事前の確認が必要だ。
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補足情報

*かつての藩校:日新館は、会津藩(23万石)の藩校で、文武両道の教場として漢学と諸武芸のほか、和学・神道・算法・天文学・医学などを藩の子弟に教育した。会津藩の藩校は3代目藩主松平正容が会津松平家の祖で父の保科正之の志をついで1688(元禄元)年に国学を建てたのが始まり。1788(天明8)年に上士以上の子弟の皆学化を図ったため、学舎が狭隘となり、5代藩主容頌によって日新館と名付けた学舎を1801(享和元)年に新造した。この頃に編纂された『新編会津風土記』では1803(享和3)年に学舎は完成したとし、日新館の意義と学制について「百の技藝殘なく兼學で人材を養育す凡國の子弟十歳より己上毎朝塾に入り誦師に就いて業を受け習書寮に入て書を學ひ十一歳より禮客及配膳等の儀を學ひ十三歳より算術を學ひ十五歳より武學寮に入り…中略・・・學行勝れたるもの大学」に進むと記している。また、生徒数は1,000人ほどいたとしている。この学舎は会津戦争の際に焼失した。
*大成殿:儒学の祖・孔子を祭るもので儒教中心の教育を行った日新館の象徴的建物である。
*大学:素読所を卒業した成績・人物ともに優秀な者のみが入学を許された。教育内容は自由研究や討論が中心だったと伝える。

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