御薬園(会津松平氏庭園)
鶴ケ城の北東1.3kmにある。中世に会津地方を支配していた芦名氏がこの地を霊地として別荘としたが、その後の戦乱で放置された。
会津に入部した会津松平家*初代藩主の保科正之が改めて庭園の整備を行ったといわれている。さらに2代藩主保科正経が貧民救済のため、1670(寛文10)年に園内に薬草園を設け、3代藩主松平正容が引き継ぎ、庭園と薬草園を改修、拡充した。このことから御薬園の名がある。
現在の庭園は3代藩主正容が1696(元禄9)年に小堀遠州系の庭師に作庭させたものといわれ、面積1万7,000m2の池泉回遊式庭園で、御茶屋御殿と、心字池内の中の島には茶室楽寿亭が建つ。会津戦争の際も戦火を免れた。現在でも旧薬草栽培地跡に約400種の薬用植物が植えられている。
会津に入部した会津松平家*初代藩主の保科正之が改めて庭園の整備を行ったといわれている。さらに2代藩主保科正経が貧民救済のため、1670(寛文10)年に園内に薬草園を設け、3代藩主松平正容が引き継ぎ、庭園と薬草園を改修、拡充した。このことから御薬園の名がある。
現在の庭園は3代藩主正容が1696(元禄9)年に小堀遠州系の庭師に作庭させたものといわれ、面積1万7,000m2の池泉回遊式庭園で、御茶屋御殿と、心字池内の中の島には茶室楽寿亭が建つ。会津戦争の際も戦火を免れた。現在でも旧薬草栽培地跡に約400種の薬用植物が植えられている。
みどころ
江戸中期の典型的な大名庭園であるが、池泉の配置や借景が見事で、とくに優れたものだとされている。大正初期の『若松市郷土誌』でも「園中廣潤樹木茂リテ花卉時ヲ失ハズ 泉石築山ノ配置凡ナラズ 小亭又數奇ヲ凝ラシテ閑雅幽邃ノ一樂境ナリキ」と紹介している。
また、御薬園では現在も薬草、薬木が栽培されているが、春にはボタン、夏にはハス、ノウゼンカズラ、秋にはツリガネニンジン、シュウメイギクなどの花も咲き、庭園散策には格好。
また、御薬園では現在も薬草、薬木が栽培されているが、春にはボタン、夏にはハス、ノウゼンカズラ、秋にはツリガネニンジン、シュウメイギクなどの花も咲き、庭園散策には格好。
補足情報
*会津松平家:徳川秀忠の庶子であった保科正之が1643(寛永20)年、会津に入部。3代藩主正容の時から松平の名を許された。京都守護職で会津戦争を戦い、明治維新を迎えた容保まで9代続いて会津地方を統治した。
関連リンク | 御薬園(WEBサイト) |
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参考文献 |
御薬園(WEBサイト) 会津若松市(WEBサイト) 『若松市郷土誌』福島県若松市 編 国立国会図書館デジタルコレクション 国指定文化財等データベース(文化庁)(WEBサイト) 『福島県の歴史散歩』福島県高等学校地理歴史・公民科(社会科)研究会 山川出版社 |
2023年09月現在
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