喜多方蔵のまち並みきたかたくらのまちなみ

喜多方市は会津盆地の北部に位置し、豊かな地下水に恵まれ良質な米の産地で、近世以降、酒・味噌・醤油などの醸造業が盛んであった。さらに、漆器などの産地でもあり、定期市が開かれ物産の集散地として栄えた。このため市の中心部を南北に流れる田付川両岸の中心街から山間に至るまで粗(あら)壁・白壁・黒漆喰(しつくい)・煉瓦造などの様々な蔵*が建ち並ぶようになり、用途も酒蔵、漆器蔵、味噌蔵をはじめ、店蔵、家財蔵、蔵座敷など多様であった。
 現在も喜多方市内には約4,000棟ほどの蔵が散在するといわれ、とくに、市の中心部にある「レトロ横丁商店街(ふれあい通り)」*沿いと重要伝統的建造物群保存地区に選定されている「おたづき蔵通り」*には、数多くの蔵がのこされ、かつての風情を残している。
 また、市街地の西、押切川公園近くにある「喜多方蔵の里」*は、蔵づくりの文化を後世に伝えることを目的として1993(平成5)年に設置され、約4,500m2の敷地内に店蔵、蔵座敷、味噌蔵など9棟の建物が移築されている。
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みどころ

喜多方の蔵の興味深いところは、多様性であり、現在も様々な形式のものを見ることができる。かつての喜多方の産業や暮らし方が蔵の形式や用途に現れており、興味深い。
 蔵の観光のポイントとなる場所は、「レトロ横丁商店街(ふれあい通り)」「おたづき蔵通り」「喜多方 蔵の里」の3ヵ所。「レトロ横丁商店街(ふれあい通り)」は商店街だけに店舗や飲食店として利用されているところが多く、ショッピングや喜多方ラーメンの店などに立ち寄りながらの観光にお勧め。「おたづき蔵通り」は地割や蔵が、江戸後期から明治大正期の雰囲気をそのまま残しており、歴史散策向き。「喜多方 蔵の里」は移築した建造物が集約され、郷土資料の展示、お土産物の売店などもあるので、喜多方の蔵の雰囲気を手軽に楽しむことができる。
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補足情報

* 様々な蔵:喜多方に数多くの蔵が建造された理由は、この地が会津盆地北部の経済的中心地であり、富裕層も多く、とくに文化文政期(1804~1830年)以降、実用性と耐火性から土蔵造りが広がった。さらに1880(明治13)年の大火によって土蔵の重要性が浸透し、一般民家、農家へも拡大した。また、白壁、黒漆喰、粗壁、レンガなど建築工法や装飾技巧にいたるまで多様性に富んだのは、喜多方地方では蔵の用途が幅広かったことと、富やステータスの象徴であったことが背景にあると言われている。このため、蔵が生活文化の中に深く根付き、現在も実際に使用されているものも多く、結果として数多くの蔵が残されることとなった。
*「レトロ横丁商店街(ふれあい通り)」:JR磐越西線喜多方駅の駅前諏訪通りの一本東側の通り。蔵が多いところは800mほど北へ行った付近。江戸後期編纂の『新編会津風土記』によると、当時は、この辺りは「小荒井村」とよばれ、「四方曠平ニテ土地肥饒ナリ 水田其中ニ闢ケ田付川押切川其土ヲ潤シ米穀豊ナリ 小荒井村ハ毎月市立アリテ遠近ヨリ人多ク集ル」とし、さらに「此村五目組熱塩村ニ行ク道ニテ昔ヨリ市日アリ商賣ノ便ヨク常ニ店ヲ出シテ諸物ヲ商ヒ其サマ若松ノ市井ニ異ナラズ」というほど、栄えていた。現在も江戸・明治以来の個性的な店蔵が軒を連ね、路地にも蔵が散在している。蔵をそのまま店舗や飲食店として利用しているところも多い。
*「おたづき蔵通り」:JR磐越西線喜多方駅から北東へ1.5km、田付川を渡った先にある。『新編会津風土記』によると、この付近は江戸期には「小田付村」とよばれたが、もともとは1582(天正10)年に「市場便リ悪キトテ九十三箇村ノ人夫ヲ發シ臺 南條 古屋敷 小田付ト云四區ノ民居ヲ此ニ集テ町割シ今ノ名(小田付村)ニ改メシト云」と、市場の便を考え町割りを行ったとしている。この時から小田付村では月6回の定期市が開かれるようになったという。その後も小荒井村と並んで、酒・味噌・醤油の醸造業が発展し、田付川東部の農山村を支える商業の中心地であった。現在でも江戸末期までに発展した短冊状の地割の上に多様な土蔵が並ぶ。店・主屋・土蔵・附属屋等建造物192件、門・石造物・市神石等25件、庭・樹木・水路等13件を含め15.5万m2が重要伝統的建造物群保存地区となっている。
*喜多方 蔵の里:JR磐越西線喜多方駅から西北に1kmほど。郷土文化の資料も展示。移築された9棟のうちには、郷頭、肝煎などの村役の居宅もある。

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