二本松城跡(福島県立霞ヶ城公園)にほんまつじょうあと(ふくしまけんりつかすみがじょうこうえん)

JR東北本線二本松駅の北約2km、安達太良山系の裾野に位置する白旗ケ峰(標高345m)の頂上から麓にかけて城跡が残っている。霞ヶ城とも呼ばれる。南・西・北は丘陵に囲まれ、東に向け少し開けた地形となっている。
 1414(応永21)年に奥州管領畠山国氏の孫満泰が、この地を本拠地としたのが始まりとされ、1586(天正14)年まで畠山氏の居城であった。その後伊達氏の支配となったが、1590(天正18)年に会津を支配した蒲生氏郷の所領となり、しばらくの間、城代による統治が続いた。1643(寛永20)年に、白河から移った丹羽光重*が城内の石垣・堀等を修築し、城下町の再整備を行った。以後、丹羽氏が11代を重ねたが戊辰戦争(1868年)で落城、二本松少年隊*などの奮戦があったものの焼失した。
 城跡は白旗ヶ峰頂上部の本丸を中心に、東側に二の丸、三の丸が置かれ、東西約560m、南北約640mの規模である。1982(昭和57)年に箕輪門・二階櫓・多聞櫓などが再建され、城跡は県立霞ヶ城公園として整備されている。城跡中腹の西側には洗心亭*が立ち、一段下がり霞池が広がる。二本松が高村光太郎の妻高村智恵子の出身地だったことから、山頂部の安達太良山を望む場所に智恵子抄詩碑*がある。
 公園となっている城跡では4月上旬~5月上旬に桜祭り、10月中旬~11月中旬「二本松の菊人形」*が開催される。
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みどころ

標高345mの山頂付近にある本丸までは整備された遊歩道やかつて利用されていた城内路などを辿り登ってみると、自然の地形を見事に利用して築かれた堅固な要害であることがわかる。また、中世の城館を近世城郭に改変した痕跡や江戸初期に積んだ石垣、丹羽家治政下での大改築など城郭としての変遷の歴史が随所にみられ、丁寧な案内板がより一層興味を深める。
 本丸からの安達太良山をはじめとする山々や二本松の市街地の眺めも良い。
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補足情報

*丹羽光重:1662~1701年(元和7~元禄14年)。明治期の『安達郡誌』によると光重は二本松へ入部したのち「深く攻守の利害を熟圖し、正保二(1646)年に大に土功を起こし山を崩し谷を埋め道路を開通し丘陵に據り外廓を築き廓の内外を區分し、郭内は藩士の邸宅とし外郭を繞らして市街地となし…中略…城内用水に乏しきを以て水源を遠く安達太良山腹に取り、山を穿ち谷を廻らし水路を通し」、その用水を城内のみならず農地の潅漑としても利用したという。
*二本松少年隊:戊辰戦争の際、新政府軍との戦いで藩士の多くが白河口の攻防に出陣した後、12~17歳の63名の少年たちが城の守りに参加し、そのうち大壇口の戦いで16名が戦死した。
*洗心亭:霞池を見下ろす眺めのよい一角に立っている。茅葺き、寄棟造の数寄屋風の建物で、もと城内にあったいくつかの茶亭の一つで「墨絵の茶室」といわれる。一時、阿武隈川畔へ移されていたが、明治になって再び現在地へ移築された。まわりの小庭園ともよく調和し、茶会などに利用されている。洗心亭や霞池より一段上にある「るり池」周辺の回遊式庭園をはじめとする庭園の整備が築城時から明和年間(1764~1772年)にかけ行われ、当時、植えられたと思われる楓の古木などが多く見られる。
*智恵子抄詩碑:高村光太郎の『智恵子抄』のなかの詩『樹下の二人』の冒頭にある「ーみちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆー」の後に来る一節「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」と「あどけない話」の一節で「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」の2つの詩文が築城伝説(畠山満泰が築城の際に生贄した牛が石化したものと伝わる)にまつわる「牛石」(露頭花崗岩)にはめ込まれている。
*二本松の菊人形:二本松には古くから菊の愛好者が多いとされ、昭和初期からは菊人形が街にも飾られていた。
1955(昭和30)年からは、霞ヶ城公園で、現在のような「菊の祭典」として毎年10月から11月下旬に開催するようになった。艶やかな菊の花と色づく紅葉が会場全体をうめつくす。
関連リンク 二本松市(WEBサイト)
参考文献 二本松市(WEBサイト)
国指定文化財等データベース(文化庁)(WEBサイト)
二本松市観光連盟(WEBサイト)
『ふくしまの城』鈴木啓 歴史春秋社
『安達郡誌』安達郡 国立国会図書館デジタルコレクション

2023年07月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。

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