ベニバナべにばな

キク科でアザミによく似た花をもち、古くから染料や口紅の原料として使用されていた。原産地は未詳だが、中近東だとされている。日本にはすでに3世紀には伝来していたといわれ、万葉集*にも「久礼奈為」、「呉藍」などとして詠み込まれており、10世紀後半に編纂された「和名類聚抄」には「紅藍」*の記載がある。
 山形での栽培が始まったのは室町末期(16世紀末)だとされ、最上川の舟運や北前船の西回り航路の開拓など流通路が確保される江戸時代に入ると、急速に栽培が拡大し、江戸時代中期には国内屈指の生産地となった。江戸後期の農学者佐藤信淵は「経済要録」のなかで「紅花ヲ作ルハ出羽ノ國村山最上ノ二郡」とし、「頗ル法ヲ得テ極上品」を生産していると称賛している。栽培されたベニバナは紅餅に加工し、多くは関西方面に出荷され、京染めの染料などに使用された。また、口紅・頬紅用としても使われたが、その紅をベニバナから採取することができる量が少なく、江戸時代には「紅一匁金一匁」と言われるほど高価であった。
 山形県内陸部の最上川流域で上質なベニバナが大生産地となり、「最上紅花」としてブランド化された理由は、ベニバナの栽培に適した土壌や気候であったことに加え、最上川を利用した舟運や西回り航路で京都、大阪との流通を担った「紅花商人」の存在が大きかったといわれる。しかし明治時代になると、中国産の安価な紅花の輸入が盛んになり、化学染料が普及したこととあいまって、山形県の紅花生産は急速に衰退していった。
 現在では、本物志向の染物業者や化粧品業者、草木染めの愛好者などに向け生産活動を行うとともに、伝統的な栽培、生産方法を継承し「紅花文化」を守る活動に官民を挙げて取り組んでいる。この活動の一環として、ベニバナを山形県の県花とし、7月の開花期を中心に、生産地の山形市、天童市、中山町、河北町、白鷹町などで、「紅花まつり」を開催している。また、交易などの面で山寺と歴史的な関わりがあることから、2018(平成30)年5月に「山寺が支えた紅花文化」として日本遺産に認定された。さらに、翌年の2019(平成31)年2月には、日本で唯一の紅花生産・染色用加工システムが評価され、「歴史と伝統がつなぐ山形の『最上紅花』」が日本農業遺産*に認定された。
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みどころ

松尾芭蕉は、「眉掃を俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花 」と詠み、ベニバナの生花そのものも化粧用の紅と同様に可憐で美しいとしている。ベニバナの開花期の7月に生産地を訪れ、赤みがかった黄色の花が一面に広がる紅花畑を散策した後は、天然染料の良さがわかる紅花染めや、紅花料理も楽しみたい。また、江戸時代に活躍した紅花商人(豪商)、生産者(豪農)の屋敷には立派な「蔵座敷」が残されており、紅花交易全盛期を偲ぶことができる。
 歴史の流れの中で、「紅花文化」をどう継承し、守っていくかは困難な問題も多いが、紅花を原料とする新機軸の加工品が生産地で創造されることに期待したい。(志賀 典人)
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補足情報

*万葉集:「紅の花にしあらば、衣手に染め著け持ちて、いぬべく思ほゆ」(私は遠い旅に行くが、いとしい人が、紅の花ででもあつてくれたら、袖に染め著けて、それを持つて、旅へ行きたいと思はれる[折口信夫・釈])など29首が詠まれている。
*「紅藍」:「和名類聚抄」では、染色具の項で記載され、「久礼乃阿井」、「呉藍」と同じとされ、「紅花」は日本での俗用だと注釈が付されている。平安期では源氏物語の第六段の「末摘花」は、鼻の頭が赤い女性を「紅花のように赤い花(鼻)」とあざけったことから付された題。
*日本農業遺産:「歴史と伝統がつなぐ山形の『最上紅花』~日本で唯一、世界でも稀有な紅花生産・染色用加工システム~」(https://www.pref.yamagata.jp/140032/sangyo/nourinsuisangyou/nogyo/sogo/nougyouisan.html
関連リンク おいしい山形(おいしい山形推進機構事務局)(WEBサイト)
関連図書 真壁仁著『ふるさと文学館第7巻』ぎょうせい、1994年7月、折口信夫著『万葉集』(kindle版)、デジタルコレクション『経済要録巻5(佐藤信淵著)』国立国会図書館、『松尾芭蕉 奥の細道 俳諧紀行文集』古典教養文(Kidle版)
参考文献 おいしい山形(おいしい山形推進機構事務局)(WEBサイト)
やまがたへの旅(やまがた観光情報センター)(WEBサイト)
紅花の歴史文化館(山形県大学附属図書館)(WEBサイト)
日本遺産「山寺と紅花」(「山寺と紅花」推進協議会)(WEBサイト)
パンフレット「河北町 紅花資料館」(河北町)

2020年12月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。

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