風の松原かぜのまつばら

能代市街の西側、米代川河口をはさむ能代海岸に広がるクロマツ700万本の防砂林。東西幅1km、南北総延長14km、 面積約760万m2の規模を誇り、現在は砂防の役割のみならず、市民のレクリエーションの場ともなっている。かつては「能代海岸防砂林」とされていたが、1987(昭和62)年に愛称を公募し、「風の松原」と命名された。
 風の松原は、米代川が運んだ砂が日本海から吹き付ける強風に、民家が砂に埋もれたり、土が飛ばされ海水が浸水するなどの災害に古くから悩まされてきたため、江戸初期*1から植林による飛砂防止策が試みられていた。マツ林の植栽は、正徳年間(1711~1716年)に入り、能代の回船問屋越後屋(渡辺)太郎右衛門と越前屋(村井)久右衛門らによって本格的に着手され、宝暦年間(1751~1764年)には、秋田藩藩士鈴木助七郎・白坂新九郎などへとこれが引き継がれていった。その後も秋田藩士と地元住民が協力し、植林事業が継続され、飛砂防止に尽力して成果を上げたという。
 しかし、明治期に入り、防砂林の管理が疎かになり、マツの根付けの役割を果たすハマナスの乱獲もあって、大正期には防砂林としての機能を失いつつあった。このため、1921(大正10)年から海岸防災林の植栽工事を開始したものの、第2次世界大戦中には事業は停滞した。しかし、戦後、事業が再開され、1965(昭和40)年頃には、海岸線に最も近い砂丘後方までの植栽を完了した。なお、米代川河口北岸部の防砂林では1955(昭和30)年頃から本格的な植栽事業が実施され、現在はクロマツ林帯が定着している。こうした歴史から、江戸期に植栽された老齢林はわずかなところにしか残されておらず、現在のマツ林は大半が大正期、昭和期の植栽により形成されたものである。
 風の松原の整備により、近接する市街地や農地などを飛砂害や風害、潮害等から保全されているとともに、現在は、1周1kmのトリムランニングコースや1周6kmのサイクリングコース、木材チップを敷き詰めた3本の散策路(各3kmほど)などが整備され、広大な松林は市民が気軽に楽しむことができるようになっている。
 風の松原にはリス、ノウサギ、キビタキ、オオルリ、イソヒヨドリ、カワラヒワ、コルリなどの動物が数多く棲息し、マイズルソウ、ハマナス、オオアマドコロ、ミツバアケビ、クサノオウ、オオイヌノフグリ、キタコブシなどの多種類の植物も観察できる。
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みどころ

1801(享和元)年に能代を訪れた菅江真澄は「日撰山(日和山:風の松原の北端)の峯も尾も松多し。むかし西風のいさ ゝかたちても沙吹きあげて、家ごとの窻(窓)に吹入て往來た(絶)ゆばかり、人々是をうれ(憂)へとせり。寳暦のころ。ここにすむ白坂新九郎、鈴木助七郎という二人の武士、かくなん公にうたへまをして、あまたの人を促して沙留に松をひしひしと植えさせ、後又般若山(現・能代公園)の尾ごとに、ぐみの木、かうか(ネムノキ)をも人々植て、風つよく四方にたちても沙吹來うれへなれんと。その功をおもふべし」と風の松原のもとになった防砂林事業について触れ、越後屋(渡辺)太郎右衛門などについては触れていないものの、江戸初期に植林に契機を作ったとされる「くすし(薬師)長尾祐達」については、その人柄や植林の苦労を記し、能代の長い砂との戦いを書き残している。
 司馬遼太郎は、「街道をゆく」のなかで「能代へゆき、海岸の松原を見た。これも、雄大な海岸森林だった。 森のなかに二車線の道路が通っているほどで、森の厚みは、道路の 両側とも、むこうが透けてみえるというようなものではない。地面には古くからの落葉が堆積している。かつてここが海岸砂漠ともいうべき砂地だったとはおもえないのである。林間を歩いていると、靴底に落葉のクッションを感じた。足もとに、ハマナスのピンク色の花がゆらいでいる」と風の松原の広大さ、雄大さに触れ、営々とした人工植林が砂地を感じさせないほどまでになっている地質の感触を書き留めている。
 散策の後の休憩には駐車場もある風の松原案内所(サン・ウッド能代)が良い。風の松原の歴史を紹介するパネルの展示、無料レンタサイクルなどがある。
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補足情報

*1 江戸初期:1670(寛文10)年頃、医師(薬師)の長尾祐達によって、植栽による飛砂防止が提唱され実践されつつあったが、事業の途中で非業の死を遂げたといわれる。菅江真澄の「雪乃道奧雪の出羽路」では非業の死の様子を伝え聞いて書き留めている。