雄物川おものがわ

雄物川は、秋田・山形県境の奥羽山脈の大仙山(標高920m)を源として、西側に出羽丘陵を見ながら上流域の山間部を抜け横手盆地の西縁を北流しながら皆瀬川、横手川などの支流を合わせ、大曲付近で玉川が合流し屈曲を繰り返す中流域を経て、秋田空港近くで北西に流れを変える。そこで下流域となる秋田平野に出て秋田市新屋では旧雄物川を分派し、本川は放水路経由で日本海に注ぐ。本川の長さは133km、流域面積は4,710km2と秋田県の40%ほどにあたる。
 1602(慶長7)年佐竹氏が秋田に入部し、1604(慶長9)年、久保田(現秋田市)を新しい城・城下町の建設地としたのは、防衛、交通、物流など、雄物川の河口に位置しているという地理的条件によるとされる。その後、江戸時代を通して、雄物川は中流域の横手盆地や下流域の秋田平野では豊かな穀倉地帯を生み、支流の玉川、皆瀬川、横手川を含め系統だった舟運によって雄勝、平鹿、仙北各郡からの物資の集散に大きな役割を果たした。このため、江戸時代には「御物川」*1「御物成川」「御貢川」とも呼ばれ、明治になって「雄物川」の漢字があてられるようになった。
 しかし一方では、雄物川は、中流域の横手盆地西端から下流域の秋田平野に入る50kmほどは、狭隘部や屈曲部が多く蛇行が激しいため、大きな洪水を繰り返した。さらに秋田平野では流路が安定しないため、江戸時代から、治水、舟運路の整備などの努力が行われてきた。現在では、流域内数十万人の水道源として、 秋田県内の農地の半分近い耕地の潅漑用水や工業用水として使われている。
 雄物川はその地形的な特性から、河跡湖・旧河道・後背湿地・自然堤防・河岸段丘などが数多く見られ、一部は干拓されたり、土地利用が進んだりしてはいるものの、現在でもこれら雄物川の独特な景観を各地でみることができる。また、川にまつわる多くの伝承、伝説*2が遺され、川に関わる「大曲の花火」をはじめ数多くの花火大会や眠流し、鹿島送り、水神信仰*3などの祭行事も盛んに行われている。
 最近では雄大な自然と多様な瀬、淵、蛇行流などを楽しむためにカヌークルージングにも利用されており、全川で27個所のカヌー発着場も設けられている。
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みどころ

明治大正の文豪田山花袋は雄物川の河口近くの風景を「雄物川は南より來りて溶々として海に入る、また、一大河の趣を備えたり」と下流域でゆったりととうとうと流れている様を描写している。一方で、秋田空港の離着陸の際に見える大規模な蛇行は別の顔を見せる。さらに横手盆地では、人々の生活を潤す母なる河の姿をみることができる。雄物川の大蛇行や狭隘部の景観をみるには、古民家の宿がある強首温泉が良いだろう。また、雄物川に関わる祭行事を見るなら、中流域の大仙、横手、湯沢の各市を訪れたい。上流域の山間には泥湯、秋ノ宮温泉郷、小安峡温泉などの温泉が湧いている。
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補足情報

*1 「御物川」:雄物川の名の由来は諸説あり、江戸中期の地誌では仙北三郡の貢物を舟にて積み下す川なので「御物川」だとされている。しかし、菅江真澄は土崎の湊を「裳(もすその)浦」あるいは「御裳のみなと」あるいは「貢(おものなり)川つみくだす(積み下す)川舟」由来説を紹介しているものの、「まことは源に御膳(おもの)澤というふありてその水の流れ來ればかしかいふとなむ。を(お)ものは御食(おもの)也。」とし、この用例は延喜式など古典籍にあるとも説明している。このため、菅江真澄の著書では「御食(おもの)川」と記している。
*2 伝承・伝説:上流域から下流域まで数多くのこされている。江戸後期の紀行家菅江真澄が採録したものから事例をあげると、雄物川に棲む(大仙市神宮寺付近)という熊のような妖怪の話で初代秋田藩主佐竹義宣が「白鳥をうち給はむとて舷へ鐵包を掛給ひしとき、水中より怪獣黒毛の生ひたる手をさし出し、筒の半をむづと掴りぬ。君大いに驚き引のき給ふに」、結局は奪われた。その地元民が引き上げ献上したが、「世に河熊の御筒と申傳へ」られたというものなどがある。
*3 眠流し、鹿島送り、水神信仰:眠流しや鹿島流しは、大仙市、湯沢市などの市内各地で行われている川へ人形や舟形の山車などを流して五穀豊穣・悪疫退散などを祈願する盆行事の一種。横手市で送り盆として行われる長さ6mほどの舟を流す「屋形舟繰り出し」は「天明の大飢饉」の死者の御霊を送る意味合いがあるなど、同様の行事が雄物川沿いの各地で行われている。また、「かまくら」でも水神が祀られる。

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