秋田県北部地方のきりたんぽ鍋あきたけんほくぶちほうのきりたんぽなべ

新米を炊いて突きつぶし、秋田杉の串に握り付け、炭火で焼目をつけたものが「たんぽ」。これを切って用いるところから「きりたんぽ」という。この「きりたんぽ」を鶏肉・ネギ・セリ・ゴボウ・キノコ類・蒟蒻などとともに薄く味つけして煮込む鍋物料理である。「たんぽ」の名は、蒲の立ち穂を鹿角地方の方言では「たんぽ」といい、その形状が似ているから名づけられた説や、槍の鞘を「たんぽ」と呼ばれることから鞘付き槍を連想したという説など、諸説ある。
 「きりたんぽ」は、大館市・鹿角市などの秋田県北部地方の山間部で発祥*1し、県内各地に広まったとされる。江戸時代頃から炭焼きや秋田杉の伐採のため山籠りした人、マタギ、ヤマゴ*2が、山小屋で残り飯やおこげを練って味噌を塗って食べたのが始まりとされ、鳥獣の鍋に入れたりしたとも伝えられている
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みどころ

ふっくらと炊き上げた秋田のうるち米をつき、秋田杉の串に握り付け、炭火でこんがりと焼くという、素朴な作り方だが、地の物の恵みに溢れている。鍋物としては比内地鶏のガラでとった出汁に冬の旬の野菜をたっぷり入れ、鶏肉などとキリタンポを一緒に煮込むシンプルなものだが、身体が芯から温まり、腹持ちも良い。県内ならば、どこへ行っても名物として出され、全国各地の秋田郷土料理の店でも供されてはいるが、できれば、秋田県北部、鹿角や大館で晩秋から初冬の新米の出回る時期に、新米のきりたんぽと脂の乗った比内地鶏*3や地物の野菜、きのこを味わうことをお勧めしたい。
 また、鍋物としてではなく、たんぽにクルミ味噌や山椒味噌を塗って焼きあげると、秋田の米の美味しさと味噌の香ばしさをたっぷり味わうことができる。
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補足情報

*1 発祥:きりたんぽの「発祥地」としては鹿角市が手を挙げており、一方、大館市は「本場」としている。明治5年に鹿角地域で近隣地域に先駆けて醤油醸造工場が操業し、家庭料理として定着していた「きりたんぽ鍋」が現在の調理法として確立され、ここから大舘市や秋田市の料亭に伝えられ「秋田名物きりたんぽ鍋」として全国に広まったことによる。鹿角市では家庭料理としては浸透しているが大舘市は特産の比内地鶏と組み合わせて料亭料理として昇華させ「本場」を名乗っている。いずれにしても、両市及び周辺の地域では、冬には「ハレの日」の家庭料理として根付き、それぞれの家庭の味が受け継がれている。
*2 マタギ、ヤマゴ:昭和初期の民俗研究家佐々木彦一郎は「マタギは鐵砲うち、ヤマゴはハリ(張)木伐り(枝木伐り)、この區別ははっきりしてゐる。しかし双方ともに百姓が冬の間の仕事として之に從事する」とし、「ヤマゴは四十日ばかりの間木を伐つて雪の上を橇を曳いて川ばたまでもってくる仕事」としている。マタギ、ヤマゴが作る「きりたんぽ」については、「ヤマゴタンポと稱して普通のタンポの倍以上ある二尺からの長さのものを焼いて食す又は飯を石で潰して團子にして味噌汁に入れて食す。(タンポは新米を炊いてこねて木の串につけて焼いたもので、形は蒲の穂の如く長さは一尺位、味噌は山椒の實、兎の肉などを摺ってまぜたものを塗り、焼いて食べるものです。北秋田の特有料理としては、之を又輪切りに切って雞肉などと共にカヤギ⦅貝焼き⦆にするのをキリタンポといふ。)」と書きのこしている。
 山での「きりたんぽ」との出会いについては、江戸末期の紀行家、菅江真澄の「雪乃母呂太奇(ゆきのもろ滝)」のなかでもみられ、1796(寛政8)年に暗門の滝を訪ねたあと、白神山地の山小屋で、出羽国藤琴(秋田県藤里町)からきた山人が「いひたき、丹波焼てふ、もちひすとて木櫃にいひがひつき立て煉り、木の長串にさし、みそあぶりつけて、いざ是くひねとて、ふたさかりはかりなるをさし出したる」(飯を炊き、丹波⦅たんぽか?⦆焼という、餅にするということで、飯を木櫃⦅きのおひつ⦆につきたて練って、木の長くしに刺して、味噌をつけあぶり、これを食べろと、2尺ばかりの串を差し出した)と、秋田県から来た山の民が山小屋できりたんぽを作ったことが記録されている。
*3 比内地鶏:秋田特産の比内地鶏が「きりたんぽ鍋」との出汁として、具としてもっとも相性のよいものとされる。比内地鶏の原種である比内鶏は秋田県北部で江戸時代に大型地鶏と軍鶏を交配して生まれたもので、ヤマドリに似た味わいと香りの豊かさがあり、出汁もよく取れることから鍋料理に最適であったが、成長が遅く生産量が少ないため地元以外には広まらなかった。1932(昭和17)年には国の天然記念物に指定され、食用とするための制約も多かったが、1973(昭和48)年に生産性が高く、比内鶏の特徴を活かした「比内地鶏」の育成に成功した。これにより商品化が進み、「きりたんぽ鍋」に広範に使われるようになった。