竿燈まつりかんとうまつり

8月3日から6日までの4日間、秋田市の中心部、竿燈大通りなどで繰り広げられる祭り。この祭りの主役となる竿燈*1の最大である「大若」は、12mの竹竿に46個の提燈*2を米俵を重ねたように九段にわけて吊するすため重量が50kgに及ぶ。これを印半纏、白足袋姿の若者の差し手が囃子に合わせ額、肩、腰へと倒れないようバランスをとりながら移動させる。
 例年の祭りのスケジュールとしては、4日間とも、38の町内や企業、学校などの団体がグループごとに、昼間は町内を練り歩き、夜は提燈に灯が入った二百数十本の竿燈が竿燈大通りに勢揃いして妙技を披露する。竿燈大通りでの披露のあとは、町内での「戻り竿燈」が夜遅くまで催される。2~4日目の昼には千秋公園前の広場で、幼い頃から鍛えてきた技を競い合う昼竿燈(竿燈妙技会)*3が開催される。
 竿燈まつりの起源については、詳しいことは分かっていないが、この地域では古くから神が合歓の木などに宿るという信仰から、神を送る形代(かたしろ)、あるいは穢れを移して水に流す「眠(ねぶ)り流し」*4と呼ぶ習わしがあり、提燈なども流す精霊流しや高提燈を家の前に掲げる習俗や七夕行事とも結びつき行われていた。秋田市の竿燈は、こうした習俗行事が、「風流」*5の影響も受け、芸能的な要素も取り入れられ巨大化して発展したと思われている。竿燈の形式は、宝暦年間(1751~1764年)*6に始められ、天明の飢饉を乗り越え、文化年間(1804~1818年)には、現在のような形式となり盛大に行われるようになったと推測される記録*7が遺されている。
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みどころ

みどころは、祭りの期間中、毎夕竿燈大通りに、二百数十本の竿燈が勢揃いして次から次に妙技を披露するところ。夜空に提燈の灯りがゆらりゆらりと揺れる様は美しい。次の差し手が継竹を継ぎやすいように支える「流し」をはじめ、「平手」、「額」、「肩」、「腰」など差し手の技術、動きが観るものを飽きさせない。子供用の小さな竿燈も登場して、見物客を大いにわかせる。
 竿燈の囃子は町中を練り歩く時に奏でる「流し囃子」と演技中の「本囃子」の2種類。勇壮な太鼓とのびやかですっきりと響く笛の音が祭りを盛り上げてくれる。
 じっくりと近くで見たい場合は、町内に戻っての「戻り竿燈」を楽しむのも良い。また、差し手の技の競い合いを見るのには、昼の「妙技会」を覗いてみるのも面白い。お囃子を含め子どもたちも参加しており、伝統の継承に努めていることがよく分かる。
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補足情報

*1 竿燈:大若以外にも中若は高さ9m、重さ30kg、提燈46個、小若は高さ7m、重さ15kg、提燈24個、幼若は高さ5m、重さ5kg、提燈24個があり、あわせて4種類ある。
*2 46個の提燈:一段目の表に「七夕」、裏に「町名」。2段~8段に「町紋」「企業名」、9段に「町紋・町名、企業名」が描かれている。
*3 昼竿燈(竿燈妙技会):大若団体規定、大若団体自由、大若個人、小若団体規定、小若囃方、囃方などの種目があり、次世代への技や伝統の継承の場ともなっている。
*4 眠(ねぶ)り流し:柳田国男は「同時代に行われていた村々の眠流しの方は、ただ単に麻稈(おがら)をめいめいの齢の数だけ折って、 草のかずらでからげ、それを枕の下に敷いて寝て、七日の朝早く川へ流すだけの行事をそう呼んでいた」あるいは「眠流しまたはネブタ流しというのが、これからそろそろ始まる夜仕事に坐睡りの出ぬまじないだった」 としているが、いずれも眠り流しの最初の趣意は穢れを流すもので、「魂送(たまおく)りや聖霊舟(しょうりょうぶね)のそれと、本来同じであった」としている。また、もともと盆行事の性格もあったことから、精霊を迎えるために門前に木を立て横木を結び、これに燈籠を飾る風習もあって、これを持ち運ぶようになり、竿燈の原形になったとも考えられている。
*5 風流:京都の祇園祭のように華やか祭りを「風流」と呼ぶが、神を華やかに迎えたり、送ったりするために、祭礼の山車,鉾などを指し、のちには仮装の練り物、囃子、踊りまでが含まれるようになった。中世の京都で生れ、細工などの技術が徐々に広まり、蝋燭や紙の発達とともに江戸期半ばまでには全国の祭りで取り入れられようになったという。秋田には京都から、あるいは佐竹家が常陸国から持ち込み、竿燈と結びつき、より華やかなものになったのではないか、と言われている。
*6 宝暦年間(1751~1764年):柳田国男は「火の昔」のなかで「蝋燭の蝋を絞る櫨の木の栽培が奨励されたのも。菜種の畠も多くなったのも・・・中略・・・江戸期半ばのことで、その時分から蝋燭の利用が民間に盛んになった」とし、庶民の間でもロウソクが自由に使えるようになったのが宝暦年間前後の江戸期半ばとしている。
*7 記録:竿燈の形式について明確に記録されているものとしては、1789(天明9・寛政元)年頃に書かれたとみられる、津村淙庵の紀行文「雪のふる道」に「ねふりながしとかやいひて なかき竿を十文字にかまへたるに ともし火をあまたいかけてささげもちて 太鼓をうちつづけ町くだりもてあるく ともし火のかず二十三十にをよべり」(眠り流しといって、長い竿を十文字に構え、灯火を沢山掲げ持ち、太鼓を打ち続け町に繰り出し練り歩く 灯火の数二十三十に及んでいる)と挿絵付きで記している。また、1804(享和4・文化元)年の人見藤寧「秋田綺麗 6月」の6日項に「鹿燈、犬燈、走馬、乞巧(七夕の祈願)、猜燈(かくし絵燈籠)、洒落、組立、風流盡さざるなし。就中三十六街より別に大なる燈籠二十、三十乃至四十五十に至るほど大竿に擎げ、力士をして持しめ、先に立は大勢筰(ささら)、柝子(ひょうしぎ)、太鼓の囃子にて聲々猥雑の語を唱へ、第一橋に隊揃し川口の方へ下る。實に未曾有の壮観也」と文化年間には、竿燈行事が盛んになっていることを書き遺している。藩主の上覧があったことも記している。この時期には、菅江真澄の「牧のあさ露」や屋代弘賢の「秋田風俗問状答」などにも同様の記録がみられる。