真人公園のサクラまとこうえんのさくら

JR奥羽本線十文字駅から東に約5km、増田の内蔵地区からは約3km。標高391mの真人山(まとやま)*1を東側に背負って広がる公園。1917(大正6)年に大正天皇即位の記念事業として造園された。公園の総面積は5万4,600m2で前面に池と中島を配し、ソメイヨシノ・ヤマザクラ、ウメ、アヤメ、ツツジが植栽されている。とくにソメイヨシノとヤマザクラは2,000本にも及び開花期は4月下旬~5月上旬。開花期間中は「さくらまつり」*2も開かれる。大正初期の造園までは松林を主とする自然公園*3だったという。公園内には戦後の日本映画第一作である並木路子主演の『そよかぜ』(1945(昭和20)年)の挿入歌「『リンゴの唄』の碑」*4がある。
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みどころ

松の緑とサクラのピンク色が公園の手前に広がる池に映え美しい景観をつくる。なんといっても2,000本のサクラが咲き競う4月下旬から5月上旬が絶佳。なかでも、樹齢数十年の太い幹のサクラが数多あり、どっしりとした姿に多くの花を咲かせている。
 公園から真人山へは手軽なハイキングコースになっており、山頂からは足下に真人公園や増田の町、遠くには鳥海山などを眺望することができる。
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補足情報

*1 「真人山」:公園の名称ともなっている「真人」は、清原真人武則の前砦があったといわれていることから名付けられたと伝えられている。出羽国の蝦夷の武人だった清原武則は前九年の合戦(1051~1062年)で、源頼義と源義家親子とともに陸奥国の安倍一族を滅ぼし、出羽、陸奥2か国を所領した。武則の没後、清原氏は内紛もあり、後三年の合戦(1083~1087年)で奥州藤原氏に滅ぼされた。「真人」の名は、天武天皇の後裔(血筋)として、804(延暦23)年小倉王が「清原真人」姓を賜り、「清原氏」を名乗ったのに始まる。清原武則がその末裔であるかは不詳だとされている。この名の由来については、江戸後期の紀行家菅江真澄も「この増田なる眞戸山は眞人山にて・・・中略・・・清原眞人武則の居城跡なりつるよしを云ひ、山を打あばけば焼米、陶皿の破(かけ)など出るといへり。諾(うべ)諾(うべ)しき物語り也」と記述している。
*2 「さくらまつり」:「たらいこぎ競争」など開催される。増田が酒造り盛んだったところから、酒造りに使用するたらいに乗って遊んだことが始まりという。
*3 自然公園:1908(明治41)年の「秋田県案内記」には「全山松樹を以て掩(おお)はれ奇巌(岩)怪石其間に起伏し山腹に不動瀧あり高さ數丈四時水絶えず山下成瀬川の碧流琴筑(きんちく・楽器の名)を奏し眞人橋之に架し山水明媚にして實に嵐山の概ありといふ」
*4 「『リンゴの唄』の碑」:増田地区で映画のロケが行われ、並木路子の歌う挿入歌「リンゴの唄」がヒットし、りんごの産地であった旧増田町の名が広く知られるようになった。作詞サトウハチロー、作曲万城目正による「リンゴの唄」は、「赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている 青い空 リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持は よくわかる・・・」で始まり、戦後間もなくの暗い世相のなか、明るい曲調が支持を得て、戦後初のヒット曲となった。公園の周辺は現在もリンゴ畑が広がり、名産地となっている。