霊場恐山れいじょうおそれざん

下北半島の中央部、JR大湊駅の北西むつ大畑公園線で約17kmの先、宇曽利山湖畔の北側に位置する。恐山菩提寺の入り口総門を入ると左側に本堂が見え、さらに山門をくぐると40余基の常夜燈が立ち並び、参道の奥には地蔵殿が立つ。参道の右手に宿坊、左手には古滝ノ湯・花染ノ湯など恐山温泉と呼ばれる質素な造りの浴舎も点在し現在も入浴できる。
 地蔵殿の左手には樹木のない火山岩の荒れ地から階段状の道が奥の院へと続き、また別の道をたどれば、納骨堂や地蔵尊から宇曽利湖畔までの道も続いている。
 霊場恐山は、円仁*が862(貞観4)年に一宇を建てて地蔵尊を安置したのが始まりと伝えられている。その後、修験者の修練場となっていたが、1456(康正2)年に蛎崎蔵人の乱で寺は破壊され閉山した。1530(享禄3)年田名部円通寺*の開基聚覚和尚が建物を修復し、寺号を釜臥山菩提寺としたと伝えられる。恐山におけるイタコ*の歴史は不明だが、恐山に多く集まるようになったのは第二次世界大戦後のことといわれている。
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みどころ

むつ市中心部からの参道には所々に道しるべの地蔵尊が並んでおり、その後ひば原始林から冷水(不老水)の水場がある。向かえの門には、親子龍(三匹 父・母・子)が彫刻され「霊場恐山」と書かれた額がかかっている。宇曽利湖近くには硫黄の臭いが立ちこめ、三途の川を渡り終えると奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんねおう)*の像が並ぶ。川に架かる「太鼓橋」は俗世と霊界を隔てる橋となる。恐山菩提寺の総門に入る手前の左手奥に迫力満点の六大地蔵*が並んでいる。このように恐山の中心部に至るまで、様々な場面が霊場恐山としての雰囲気を醸し出している。
 境内に入ると多くの仏像や、静寂の中にカラカラと音を出して回る風車(かざぐるま)*が並び霊場の雰囲気がさらに増す。境内の宇曽利山湖寄りは賽ノ河原と呼ばれるところがあり、いちだんと荒涼とした風景を見せ、美しいエメラルド色を映し出す宇曽利山湖の極楽浜となる。ところどころに積まれた小石の山、風雨にさらされた卒塔婆、黙然とたたずむ石地蔵、それらには死者への弔いの気持がこめられている。
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補足情報

*円仁:794~864年・慈覚大師。平安時代初期の天台宗の高僧。下野に生まれ、15歳で最澄の弟子となった。唐で学んだ後、天台教学を大成。また、比叡山興隆の基礎を築いた。東北各地に寺を開いている。
*円通寺:この寺が恐山菩提寺を管理している。
*イタコ:巫女のことで、東北地方独特の呼び名である。市子(いちこ)ともいう。子供のころから厳しい修行を積んだ中年以上の女性が、依頼により神がかりとなって、死者の言葉を生者に伝える口寄せを行う。イタコには南部イタコと津軽イタコとがあり、恐山大祭に集まるのはほとんど後者。
*菅江真澄:1754~1829年。江戸中期から後期にかけての国学者、紀行家、民俗学者。蝦夷地や東北地方の紀行日記は写生図とともに江戸後期東北の歴史地理の精細な当時の姿を描写している。「菅江真澄遊覧記」によると真澄は1793(寛政4)年ごろ何度か恐山に登っている。
*奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんねおう):奪衣婆は、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。この衣類の重さで死後の処遇が決められるという。
*六大地蔵:由来は、生きとし生けるものすべて、六種の世界(六道の世界)に生まれ変わりを繰り返すと言われている。六種の世界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天国の六つ。地獄道から救う檀陀地蔵(だんだじぞう)、餓鬼道から救う宝珠地蔵(ほうじゅじぞう)、畜生道から救う宝印地蔵(ほういんじぞう)、阿修羅道から救う持地地蔵(じちじぞう)、人間道から救う除蓋障地蔵(じょがいしょうじぞう)、天道におられる日光地蔵(にっこうじぞう)からなる。
*風車:元来は早逝した子供の供養の為に供えられていた。現在は一般的な供養の為。

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