大江教会おおえきょうかい

大江教会は天草下島*の南部に位置し、熊本市から西南へ約85km、車で約3時間の距離にある。
 戦国時代、領主の天草氏は1566(永禄9)年に布教を許可した。その後、キリシタン大名・小西行長*が肥後南部を支配すると、天草氏は配下になり、豊臣秀吉の「伴天連追放令*」後も宣教師を庇護した。禁教後、この地の潜伏キリシタンは島原天草一揆*には加わらず、信仰を続ける。1805(文化2)年、﨑津周辺で5,000人以上が摘発される「天草崩れ」が発生するが、「心得違いをしていた」とみなされて放免された。
 1873(明治6)年に信教の自由が黙認されると、カトリックへの復帰が始まる。大江教会は、キリスト教解禁後、天草で最も早く造られた教会で、現在の建物は1933(昭和8)年ガルニエ神父が地元信者と協力して建立したものである。﨑津教会*と同じく鈴川与助*が設計・施工を行っている。半円アーチの窓やドーム型の塔を持つロマネスク様式が特徴の教会で、周囲にはソテツやヤシなど南国の木々や草花が植えられている。
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みどころ

大江教会は、集落を一望できる丘の上に悠然と立っている。﨑津教会の「海の天主堂」に対して「山の天主堂」と呼ばれていると言う。ロマネスク様式の教会で真っ白な外観は優美さを感じさせる。一部にステンドグラスをはめ込んだ教会内には聖画が飾られていて厳かな雰囲気が漂う。教会を取り囲むソテツやフェニックスなど南国の木々や草花が、建物の白さを際立たせている。敷地内にはパーテルさんとして親しまれたガルニエ神父の像やルルドの聖母マリア像があり、天草キリシタンのシンボル的な存在となっている。教会から眺める集落と海の穏やかな風景も心を落ち着かせてくれる。丘の麓には、島原・天草一揆後もキリシタン信仰を続けた人々の資料を展示した資料館「天草ロザリオ館」にも合わせて訪れたい。
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補足情報

*天草下島:熊本県の天草諸島にある島。面積約574.01km2と熊本県最大で、天草市と天草郡苓北町に属する。
*小西行長:生年不詳、1600(慶長5)年没。 安土桃山時代の武将。通称彌九郎。キリシタン大名で洗礼名はアグスチン。豊臣秀吉に仕え、文禄の役・慶長の役に活躍。秀吉の死後、石田三成らと行動をともにし、関ヶ原の戦いに敗れ、処刑された。
*伴天連追放令:1587(天正15)6月19日付で豊臣秀吉が発布した宣教師追放令。日本を神国とし、キリシタンを神社・仏閣を破壊する邪法と規定したうえで、宣教師の日本退去を命じたもの。
*島原天草一揆:1637(寛永14)年から翌年にかけて、九州の島原・天草に起こったキリシタン信徒を主とする農民一揆。幕府の禁教政策と領主の苛政に対し、天草四郎時貞*を総大将とする約3万の農民・浪人が原城にこもって頑強に抵抗、幕府軍によって4か月後に落城した。
*天草四郎時貞:生年不詳、1638(寛永15)年没。益田甚兵衛の子。寛永14年圧政とキリシタンの弾圧に対して島原と天草で一揆がおこると、小西行長の遺臣らにおされ大将となる。島原半島の原城に籠城、幕府軍の板倉重昌を敗死させたが、1638(寛永15)年2月28日落城、16歳で討ちとられたという。姓は益田。名は時貞。洗礼名はジェロニモ、フランシスコの二つがある。
※﨑津教会:大江集落から車で10分ほどの距離にある。大江集落で布教活動を行っていたフランス人宣教師のガルニエ神父が、1928(昭和3)年まで、﨑津教会の神父を兼任しており、神父道と呼ばれる峠道を往来し、両集落にキリスト教の布教を行っていた。
*鉄川与助:1879(明治12)~1976(昭和51)年。長崎県出身。明治から昭和時代の建築家。1906年(明治39)年、家業の建築業を継ぎ、長崎県内のカトリック教会の建築を手がける。はじめは外国人宣教師に指導を受けたが、のちに日本の風土にあった建築技術を開発。1919(大正8)年、全国でも数少ない石造の頭ケ島教会(長崎県新上五島町)を造った。
*五足の靴:1907(明治40)年、与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、平野万里、吉井勇、木下杢太郎が九州を訪ねたときの紀行文の題名。『東京二六新聞』紙上に連載された。5人は、福岡や長崎、阿蘇などを回り、天草では、大江天主堂の司祭ガルニエ神父を訪ね、その宗教的雰囲気に深い衝撃を受け、それを記した本紀行文は広く知れ渡ることになった。

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