﨑津教会
﨑津教会のある﨑津集落(天草市河浦町)は天草下島*の南部に位置する漁村で、熊本市から西南へ約85km、車で約3時間の距離にあり、羊角湾の北岸に面している。古くは“佐志の津”とも呼ばれていた。1563(永禄6)年にキリスト教布教のため日本に訪れた、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが著した「日本史」によると、1569(永禄12)年にアルメイダ修道士が河内浦(現在の河浦町)でキリスト教の布教を開始し、インドから来る船を迎えるために「Saxinoccu(﨑津)」という港を設けたとあり、このことからも﨑津は16世紀頃には西洋にも知られていたことがわかっている。
戦国時代、領主の天草氏は1566(永禄9)年に布教を許可した。その後、キリシタン大名・小西行長*が肥後南部を支配すると、天草氏は配下になり、豊臣秀吉の「伴天連追放令*」後も宣教師を庇護した。禁教後、この地の潜伏キリシタンは島原天草一揆*には加わらず、信仰を続ける。1805(文化2)年、﨑津周辺で5,000人以上が摘発される「天草崩れ」が発生するが、「心得違いをしていた」とみなされて放免された。
1873(明治6)年に信教の自由が黙認されると、カトリックへの復帰が始まる。﨑津教会は、キリスト教解禁直後に﨑津の大工によって最初の木造教会堂が建設された後、フランス人宣教師のハルブ神父の指導のもと、現教会堂が鉄川与助*の設計・施工により、1934(昭和9)年に建てられた。現在の教会堂が建つ場所は、禁教時代に潜伏キリシタンの取り締まりのため、「絵踏」が行われた﨑津村庄屋宅跡が選ばれた。ゴシック様式の三廊式平屋で、リブ・ヴォールト天井構造に切妻屋根瓦葺き。正面の尖塔・拝廊と手前二間は鉄筋コンクリート製で、祭壇を含めた奥三間は木造建築。内部は畳敷きで、壁は白く明るい漆喰塗りとなっている。
戦国時代、領主の天草氏は1566(永禄9)年に布教を許可した。その後、キリシタン大名・小西行長*が肥後南部を支配すると、天草氏は配下になり、豊臣秀吉の「伴天連追放令*」後も宣教師を庇護した。禁教後、この地の潜伏キリシタンは島原天草一揆*には加わらず、信仰を続ける。1805(文化2)年、﨑津周辺で5,000人以上が摘発される「天草崩れ」が発生するが、「心得違いをしていた」とみなされて放免された。
1873(明治6)年に信教の自由が黙認されると、カトリックへの復帰が始まる。﨑津教会は、キリスト教解禁直後に﨑津の大工によって最初の木造教会堂が建設された後、フランス人宣教師のハルブ神父の指導のもと、現教会堂が鉄川与助*の設計・施工により、1934(昭和9)年に建てられた。現在の教会堂が建つ場所は、禁教時代に潜伏キリシタンの取り締まりのため、「絵踏」が行われた﨑津村庄屋宅跡が選ばれた。ゴシック様式の三廊式平屋で、リブ・ヴォールト天井構造に切妻屋根瓦葺き。正面の尖塔・拝廊と手前二間は鉄筋コンクリート製で、祭壇を含めた奥三間は木造建築。内部は畳敷きで、壁は白く明るい漆喰塗りとなっている。
みどころ
﨑津集落の入り口に建つ天草市﨑津集落ガイダンスセンターに車を置き、集落に向かう。﨑津の西側に位置する下町・中町・船津地区は、湾内のわずかな平地に家屋が密集している。このため、「トウヤ」と呼ばれる細い小路が海に向かって数軒ごとに通り、漁村の生活に密着した交流の場にもなっている。また、海に張り出すようにして竹やシュロを利用した「カケ」と呼ばれる構造物が設けられており、漁船の停泊や魚干しなど、生活上の施設として利用されている。かつて中世の時代には外国船が出入りする港として、近世から近代にかけては貿易や石炭搬出など流通・往来の拠点として重要な役割を担ってきた面影は影を潜め、穏やかな漁村の風景が続く。古くからの流通・往来の拠点として発展し、漁業を生業としてきた﨑津の独特の景観が高く評価され、2011(平成23)年2月7日に「天草市﨑津の漁村景観」として天草市で初めて国の重要文化的景観に選定された。また、2012(平成24)年には追加選定により「天草市﨑津・今富の文化的景観」に名称変更された。
集落の一角、羊角湾のほとりに立つ﨑津教会がひときわ目を引く。「海の天主堂」ともいわれるこの教会は吉田庄屋役宅跡に建ち、聖像画を踏ませる「絵踏(えふみ)」が行われた場所にあえて祭壇が置かれたという。ゴシック様式の正面外観には重厚感が漂う。内部は国内でも数少ない畳敷きで、日本と西洋の文化の融合を象徴している。コンクリートと木造が組み合わされた構造は、資金不足によるもので、それだけに当時の人たちの思いに心が打たれる。近くにある「﨑津資料館みなと屋」(有料)では、アワビなどの貝殻の内側に浮かび上がる模様を聖母マリアに見立てて祈ったという信心具などを見ることができる。「天草の﨑津集落」を構成資産に含む「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、2018(平成30)年7月に世界文化遺産に登録された。
集落の一角、羊角湾のほとりに立つ﨑津教会がひときわ目を引く。「海の天主堂」ともいわれるこの教会は吉田庄屋役宅跡に建ち、聖像画を踏ませる「絵踏(えふみ)」が行われた場所にあえて祭壇が置かれたという。ゴシック様式の正面外観には重厚感が漂う。内部は国内でも数少ない畳敷きで、日本と西洋の文化の融合を象徴している。コンクリートと木造が組み合わされた構造は、資金不足によるもので、それだけに当時の人たちの思いに心が打たれる。近くにある「﨑津資料館みなと屋」(有料)では、アワビなどの貝殻の内側に浮かび上がる模様を聖母マリアに見立てて祈ったという信心具などを見ることができる。「天草の﨑津集落」を構成資産に含む「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、2018(平成30)年7月に世界文化遺産に登録された。
補足情報
*天草下島:熊本県の天草諸島にある島。面積約574.01km2と熊本県最大で、天草市と天草郡苓北町に属する。
*小西行長:生年不詳、1600(慶長5)年没。 安土桃山時代の武将。通称彌九郎。キリシタン大名で洗礼名はアグスチン。豊臣秀吉に仕え、文禄の役・慶長の役に活躍。秀吉の死後、石田三成らと行動をともにし、関ヶ原の戦いに敗れ、処刑された。
*伴天連追放令:1587(天正15)6月19日付で豊臣秀吉が発布した宣教師追放令。日本を神国とし、キリシタンを神社・仏閣を破壊する邪法と規定したうえで、宣教師の日本退去を命じたもの。
*島原天草一揆:1637(寛永14)年から翌年にかけて、九州の島原・天草に起こったキリシタン信徒を主とする農民一揆。幕府の禁教政策と領主の苛政に対し、天草四郎時貞*を総大将とする約3万の農民・浪人が原城にこもって頑強に抵抗、幕府軍によって4か月後に落城した。
*天草四郎時貞:生年不詳、1638(寛永15)年没。益田甚兵衛の子。寛永14年、圧政とキリシタンの弾圧に対して島原と天草で一揆がおこると、小西行長の遺臣らにおされ大将となる。島原半島の原城に籠城、幕府軍の板倉重昌を敗死させたが、1638(寛永15)年2月28日落城、16歳で討ちとられたという。姓は益田。名は時貞。洗礼名はジェロニモ、フランシスコの二つがある。
*鉄川与助:1879(明治12)~1976(昭和51)年。長崎県出身。明治から昭和時代の建築家。1906年(明治39)年、家業の建築業を継ぎ、長崎県内のカトリック教会の建築を手がける。はじめは外国人宣教師に指導を受けたが、のちに日本の風土にあった建築技術を開発。1919(大正8)年、全国でも数少ない石造の頭ケ島教会(長崎県新上五島町)を造った。
※大江教会:﨑津集落から車で10分ほどの距離にある大江集落の丘の上には、﨑津教会とも縁が深い大江教会が建っている。大江集落で布教活動を行っていたフランス人宣教師のガルニエ神父が、1928(昭和3)年まで、﨑津教会の神父を兼任しており、神父道と呼ばれる峠道を往来し、両集落にキリスト教の布教を行っていた。
*小西行長:生年不詳、1600(慶長5)年没。 安土桃山時代の武将。通称彌九郎。キリシタン大名で洗礼名はアグスチン。豊臣秀吉に仕え、文禄の役・慶長の役に活躍。秀吉の死後、石田三成らと行動をともにし、関ヶ原の戦いに敗れ、処刑された。
*伴天連追放令:1587(天正15)6月19日付で豊臣秀吉が発布した宣教師追放令。日本を神国とし、キリシタンを神社・仏閣を破壊する邪法と規定したうえで、宣教師の日本退去を命じたもの。
*島原天草一揆:1637(寛永14)年から翌年にかけて、九州の島原・天草に起こったキリシタン信徒を主とする農民一揆。幕府の禁教政策と領主の苛政に対し、天草四郎時貞*を総大将とする約3万の農民・浪人が原城にこもって頑強に抵抗、幕府軍によって4か月後に落城した。
*天草四郎時貞:生年不詳、1638(寛永15)年没。益田甚兵衛の子。寛永14年、圧政とキリシタンの弾圧に対して島原と天草で一揆がおこると、小西行長の遺臣らにおされ大将となる。島原半島の原城に籠城、幕府軍の板倉重昌を敗死させたが、1638(寛永15)年2月28日落城、16歳で討ちとられたという。姓は益田。名は時貞。洗礼名はジェロニモ、フランシスコの二つがある。
*鉄川与助:1879(明治12)~1976(昭和51)年。長崎県出身。明治から昭和時代の建築家。1906年(明治39)年、家業の建築業を継ぎ、長崎県内のカトリック教会の建築を手がける。はじめは外国人宣教師に指導を受けたが、のちに日本の風土にあった建築技術を開発。1919(大正8)年、全国でも数少ない石造の頭ケ島教会(長崎県新上五島町)を造った。
※大江教会:﨑津集落から車で10分ほどの距離にある大江集落の丘の上には、﨑津教会とも縁が深い大江教会が建っている。大江集落で布教活動を行っていたフランス人宣教師のガルニエ神父が、1928(昭和3)年まで、﨑津教会の神父を兼任しており、神父道と呼ばれる峠道を往来し、両集落にキリスト教の布教を行っていた。
関連リンク | 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター |
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参考文献 |
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター(WEBサイト) 一般社団法人天草宝島観光協会(WEBサイト) 天草市(WEBサイト) |
2024年11月現在
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