藤崎八旛宮
熊本市街地の北東、熊本市電水道町から徒歩15分、熊本電鉄藤崎宮前から徒歩5分にある。熊本の総鎮守といわれ、熊本市を代表する神社の一つである。
935(承平5)年、朱雀天皇の平将門の乱平定の勅願により、京都の石清水八幡大神(応神天皇、比咩大神(ひめおおかみ)、神功皇后)を国家鎮護の神として熊本の地に勧請したのに始まる。社地はのちに熊本城地となる茶臼山(現在の藤崎台球場)が選ばれた。
創建以来、朝廷から庶民に至るまで広く信仰をあつめ、往時の社殿は壮大を極めた。南北朝時代と戦国時代には戦場と化し荒廃した時期もあったが、加藤氏、その後、細川氏が肥後の国守に就くと藤崎八旛宮の造営に力を尽くし、社殿造営費をはじめ毎年恒例の諸祭事に至るまで、すべて藩費でまかなわれた。
1877(明治10)年に西南戦争が勃発し、藤崎台にあった社殿は隣接する熊本城とともに焼失した。社地が熊本鎮台用地になったため現在の井川渕町に移転し、1878(明治11)年に仮殿を造営、1884(明治17)年に本殿が造営された。その後、1985(昭和60)年の鎮座1050年式年大祭を目処に修復整備と新規施設の諸工事が進められ、現在の姿となる。摂社1社、末社9社が鎮座する。
社宝は木造僧形八幡神坐像と木造女神坐像の二体の神像(いずれも国指定重要文化財)や後奈良天皇の勅額*などがある。毎年9月中旬に5日間にわたる藤崎八旛宮例大祭が行われる。
935(承平5)年、朱雀天皇の平将門の乱平定の勅願により、京都の石清水八幡大神(応神天皇、比咩大神(ひめおおかみ)、神功皇后)を国家鎮護の神として熊本の地に勧請したのに始まる。社地はのちに熊本城地となる茶臼山(現在の藤崎台球場)が選ばれた。
創建以来、朝廷から庶民に至るまで広く信仰をあつめ、往時の社殿は壮大を極めた。南北朝時代と戦国時代には戦場と化し荒廃した時期もあったが、加藤氏、その後、細川氏が肥後の国守に就くと藤崎八旛宮の造営に力を尽くし、社殿造営費をはじめ毎年恒例の諸祭事に至るまで、すべて藩費でまかなわれた。
1877(明治10)年に西南戦争が勃発し、藤崎台にあった社殿は隣接する熊本城とともに焼失した。社地が熊本鎮台用地になったため現在の井川渕町に移転し、1878(明治11)年に仮殿を造営、1884(明治17)年に本殿が造営された。その後、1985(昭和60)年の鎮座1050年式年大祭を目処に修復整備と新規施設の諸工事が進められ、現在の姿となる。摂社1社、末社9社が鎮座する。
社宝は木造僧形八幡神坐像と木造女神坐像の二体の神像(いずれも国指定重要文化財)や後奈良天皇の勅額*などがある。毎年9月中旬に5日間にわたる藤崎八旛宮例大祭が行われる。
みどころ
国道3号線と1号線の交差点に面して石の大きな鳥居が建ち、そこから松並木の参道がまっすぐに延びる。秋の例大祭では、この参道を随兵行列が進み、多くの人で賑わう。楼門をくぐると正面に拝殿が建ち、回廊に囲まれ、社殿の鮮やかな朱色が際立つ。本殿の背を流れる白川から届く風が心地よい境内には、ジョギングの途中や出勤前に手を合わせるなど、日常の光景も広がる。
補足情報
*勅額:天皇の自筆の額。藤崎八旛宮は「旛」の字をあてる日本で唯一の神社で、1542(天文11)年、後奈良天皇から賜った勅額に「藤崎八旛宮」と記されていたことに由来する。旛は「大きくて幅の広いのぼり旗」を意味する。
関連リンク | 藤崎八旛宮(WEBサイト) |
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参考文献 |
藤崎八旛宮(WEBサイト) 熊本県公式観光サイトもっと、もーっと!くまもっと。(WEBサイト) 熊本市観光ガイド 熊本市観光政策課(WEBサイト) 「熊本県の歴史散歩」株式会社山川出版社 |
2024年11月現在
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