人吉城ひとよしじょう

人吉城は、JR肥薩線の人吉駅、くま川鉄道の人吉温泉駅から東南東へ約1.3km、徒歩で約20分の距離にある。球磨川と胸川の合流地点に位置する。球磨川と胸川を自然の堀とし、球磨川に迫る険しい地形を利用した要害で、国指定史跡となっている面積は216,000m2
 もと平頼盛の代官矢瀬主馬佑の山城であったが、1198(建久9)年、相良長頼*が矢瀬氏を滅して城主となった。1199(建久10)年より城の修繕・改築を始め、その際に三日月文様の入った石が出土したことから、人吉城を「三日月城」や「繊月城」とも呼ぶようになったと伝わる。以来、明治維新による廃藩置県まで約700年にわたり、相良氏が歴代にわたって居城した。
 人吉城の名前が、古文書で初めて確認されたのは1470(文明2)年であるが、過去の発掘調査から1400~1500年代の出土品が確認されていることから、整備・拡張されたのは11代・相良長続の頃と推察されている。中世の時代は自然地形を重視した山城で、1598年から工事が始まり石垣造りの近世城郭へ改修が行われた。本丸には天守はなく、護摩堂と呼ばれる二階建ての建物があり、二の丸に藩主の御殿が置かれていた。その後も地震や洪水などの天災により、崩落・修復を繰り返したとの記録が残っている。
 城の建物は1871(明治4)年の廃藩置県をきっかけに、城内の建物や立木は払い下げられ、石垣のみを残す形となった。江戸時代末期に施された石垣の武者返し(はね出し)は、和式築城には見られない珍しいものであり、1857(安政4)年に建てられた日本で最初の洋式城郭、函館の五稜郭にこの構築法が見られる。城内には角櫓・長塀・多門櫓・堀合門が、絵図・文献・写真などの資料や、発掘調査をもとに忠実に復元されている。
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みどころ

鎌倉時代から球磨地方を治めた相良氏の居城として長い歴史を持つ人吉城。球磨川南岸を臨む高台にあり、川面にはうっそうとした木立が映える。対岸から見ると、建物が密集する市街地にあって、球磨川と人吉城の石垣だけの風景を望むことができる。
 川岸には上流から運ばれてくる物資の搬入に使われていた「水ノ手門跡」があり、その周辺には「間米 蔵跡」「塩蔵」などの蔵があったことも江戸時代の絵図からわかっている。川とともに歴史を重ねてきた城の往時がしのばれる。石垣上端にある突出部の「はね出し」は、他ではあまり見られない貴重な造り。 1993(平成5)年、川沿いの石垣の上に「多門櫓」と「角櫓」、これをつなぐ長塀が復元され、人吉城のシンボルとなっている。
 春には、相良神社境内と球磨川沿いの石垣に沿って咲く桜が見事で、多くの花見客で賑わう。秋には、登城の際に最初に通る「御下門跡」周辺が、鮮やかな紅葉と石垣とが美しいコントラストをみせる。藩主の御殿が建っていた二ノ丸からは、三の丸越しに見える城下町と、盆地を囲む山々を眺めることができる。
 近くには「人吉城歴史館」*があり、人吉藩、人吉城に関する様々な資料が展示されている。中でも石造りの地下室遺構は、全国的に類例のない井戸を備えた特殊な造りで、建造当初の姿の石積みを見学できる。合わせて立ち寄りたい。
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補足情報

*相良長頼:1177(治承元)年~1254(建長6)年。鎌倉時代の武将で、源頼朝につかえた。1205(元久2)年、畠山合戦の功で、肥後(熊本県)人吉荘の地頭に任命され、肥後相良氏の祖となる。
*人吉城歴史館:令和2年7月の豪雨被害により休館中(2024年11月現在)。

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