生の松原いきのまつばら

博多湾の南西隅を占める今津湾岸の弓状の浜に約3kmにわたって見られる美しい松原である。目の前には能古島が浮かび、東方からのびた海の中道につづいて志賀島が望める。松原の中には鎌倉時代に築かれた元寇防塁の一部が残っており、西の長垂海岸との間には国の天然記念物の含紅雲母ペグマタイト*岩脈がある。波静かな海岸は海水浴場となっている。
 地名の由来はいくつかあり、1つは『日本書紀』応神天皇紀に、天皇の忠臣であった武内宿禰の身代りになって死んだ姪の壱岐直真根子の記述があり、その真根子を祀ったという壱岐(生)神社が近く建っているからという説と、もう1つは神功皇后が戦勝祈願のために植えた逆松(生松)に由来するという説がある。
 室町時代の連歌師宗祇や、戦国時代の武将である細川幽斎などは生の松原を見物し、和歌に詠み、また福岡藩の儒学者・貝原益軒は『筑前国続風土記』において、「林中広く、白砂清潔にして、風景すくれ、他邦には又たくひもなき佳景也」と評すなど、古くから名所として知られていた。
 江戸時代に入り、1610(慶長15)年、初代福岡藩主・黒田長政は、松原の東方の空地に松の植林を命じ、また唐津街道の整備を行った。1773(安永2)年には、6代藩主・継高は壱岐直真根子の祠の社殿を再建し、翌年には石鳥居を建立するなど、藩は壱岐神社の保護にも努めた。
 街道を通る旅人が松林の間から海辺が見える景色がよい、と紀行文に書いているように、江戸時代の生の松原は、松の植林や街道の整備によって、街道沿いの美しい松林という景観を保持していた。現在は玄海国定公園の一部であり、九州大学農学部付属の演習林にもなっている。
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みどころ

弓状になだらかな海岸線の美しさ、またクロマツ林の保存も非常に良好であることに価値がある。散策にも適した場所である。地名の由来である、壱岐直真根子や神功皇后の伝説が残り、神秘やロマンを感じる。古くから景勝地として数多くの文化人などの興味を引いていたこと、また福岡藩・黒田長政らによって保護されてきた土地であること、さらには元寇を防いだ最前線であったことなど、歴史宿る風景である。
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補足情報

*ペグマタイト:巨晶花崗岩ともいう。花崗岩やその周囲の変成岩中に脈状にみられる。主として石英・アルカリ長石・雲母からなる粗粒の火成岩である。