屋嶋城やしまのき

663(天智天皇2)年の白村江の戦い*を契機として、中大兄皇子が唐と新羅の侵攻に備え、対馬、九州から瀬戸内海沿岸にかけて築かせた山城の一つ。667(天智天皇6)年に築かれたことが「日本書紀」に記されている*。屋島はもともと陸地から切り離された島で、海上交通における要所にあり、メサ地形特有の断崖絶壁が発達し、眺望が利く場所も数多く存在するため、軍事上の要衝としての条件を備えていた。
 長らくその実体は不明であったが、1998(平成10)年に南嶺山上近くの南西斜面において石積みが発見されたことを契機に、発掘調査が進められた。全長7kmに渡っていたと考えられている城壁のうち、人工的に築かれていたのは約1割程度で、自然地形を最大限に活用している。屋嶋城の遺構が確認されているのは、現在のところ、南嶺山上と標高 100m ほどに位置する浦生地区である。石積みが発見された城門地区では、2007(平成19)年度から高松市が進めてきた整備事業が完了し、2016(平成28)年3月から復元された遺構が公開されている。城門は国内の古代山城の中でも最大級の規模で、朝鮮半島の城づくりの技術を裏付ける「懸門」(けんもん)や「甕城」(おうじょう)など戦闘時の防御に優れた構造を見ることができる。
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みどころ

城門地区は山上駐車場から旧ケーブル山上駅へ向かう途中の屋島山頂付近から西に少し下がったところにある。麓から徒歩の場合は、遍路道の不喰梨(くわずのなし)から直接上がる道も整備されている。迫力ある石積みが復元されており、とくに下側から見ると全体像がわかりやすい。
 城門は水が集まりやすい場所に築かれていたため、多くが流失しており、扉を設置した場所など門に関わる遺構は柱穴4つしか確認できていないが、門の床面は石敷きで階段状につくられ、床下には排水溝も設けられていたことがわかった。城門には懸門と呼ばれる約2.5mの段差が設けられ、敵の侵入を拒む構造となっている。普段は梯子をかけて出入りをし、敵が攻めてきた際には梯子を外して外から侵入できなくしていた。城門の奥は岩盤が行く手を阻んで左(北側)にしか進めないようになっており、上に小規模な土塁を巡らすことで侵入してくる敵の横から矢をかけられる仕組みになっている。壁面が甕を縦に割った形状に似ていることから、甕城と呼ばれている。懸門や甕城は朝鮮半島の古代山城によく見られ、朝鮮半島の築城技術が用いられたことを裏付けるものである。城門地区の城壁は石積みで、山上で確保できる安山岩が用いられていた。高さは6mから7mで、自然地形に添うように蛇行しながら築かれている。
 城門地区と同時に整備された西尾根展望台*からは谷をはさんだ反対側から城門地区を眺めることができる。メサ地形をつくりだした崖を天然の要害としているようすがよくわかる。(勝田 真由美)
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補足情報

*白村江の戦い:唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を再興するため日本は救援軍を朝鮮半島へ派遣したが、663(天智天皇2)年8月、白村江で両国連合軍に大敗した。 
*日本書紀の667(天智天皇6)年11月の条に「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」 とある。
*屋島寺の四天門と獅子の霊巌の間にある土産物店の手前、「集いの広場」の奥にある。
関連リンク もっと高松(高松市)(WEBサイト)
参考文献 もっと高松(高松市)(WEBサイト)
うどん県旅ネット(公益社団法人香川県観光協会)(WEBサイト)
『古代山城 屋嶋城』パンフレット

2022年11月現在

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