塩飽本島町笠島の町並みしわくほんじまちょうかさしまのまちなみ

塩飽諸島*付近は、鳴門海峡と豊後水道からの潮流が交わる良好な漁場であり、瀬戸内の海上交通の要衝でもあった。島民は潮流を読むことにたけ、操船や造船を得意とし、中世ごろには塩飽水軍として活躍した。
 笠島集落は、丸亀市本島*の北東端にある小さな港町で、北面に天然の良港が開け、三方は丘陵に囲まれている。笠島はまたの名を城根と呼ばれ、集落の東側、標高約40m(東山)の丘陵頂部には笠島城(東山城)があり、塩飽水軍の拠点だった。1985(昭和60)年に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、家屋の修復等保全が進んでいる。
 集落内は、東寄りを南北に走る「東小路」と、これと直交して海岸線に並行して走る「マッチョ通り」(「町通り」がなまったもの)がメインストリートとなっている。各道路は直線ではなく、S字型や弓なり型の緩やかなカーブを描いており、通りの両端が枡形のように食い違ったり、T字形になったり、道幅を変えたりして、見通しがきかないよう工夫されている。町並みは廻船問屋など豪商の屋敷や町屋などから成り、多くが江戸時代後期から戦前に建てられたものである。現在、江戸時代の建物が13棟、明治時代のものが20棟ほど残っており、本瓦葺、厨子(つし)二階建てで、虫籠(むしこ)窓や格子窓を設けた町屋形式の建物が多い。まち並保存センター(真木(さなぎ)邸)、ふれあいの館(小栗邸)、文書館(藤井邸)の3軒が一般に公開され内部を見学することができる。
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みどころ

漆喰の白さがまぶしい街並みは、どっしりと落ち着いた雰囲気で、端正な美しさを醸し出している。廻船問屋だった真木邸はなまこ壁の土蔵が特徴。町屋に多く見られる虫籠窓は、屋根裏を物置に活用していた商家が通気と明り取りのために設けた固定窓である。
 塩飽諸島は西廻航路の確立とともに海運業で繁栄し、船持衆がその富を競い合って屋敷に意匠を凝らした。島には船大工の技術があり、海運業の衰退後は建築大工として活躍し「塩飽大工」と呼ばれた。下屋根を支える「持ちおくり」には大工たちが技を競った複雑な彫刻も見られる。建物の内部も凝っており、欄間や建具などの意匠が素晴らしく、塩飽大工の技術力の高さを随所に感じさせる。町並み保存地区には常時公開されている3軒以外にも、伊藤若冲の掛け軸で有名になった「吉⽥邸」(見学は要予約)や江戸時代後期の建物を改修した自炊型の民宿「大倉邸」(1日1組限定)などがある。
 マッチョ通り西端の尾上神社からは集落を見渡すことができ、さらに徒歩約10分の山道を登った標高110m山頂からは瀬戸大橋や瀬戸内海の島々を望むことができる。(勝田 真由美)
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補足情報

*塩飽諸島:備讃瀬戸に点在する28の島の総称。とくに諸島の中心をなす櫃石島(ひついしじま)・与島・本島・牛島・広島・手島・高見島を塩飽七島と称する。現在は埋め立てにより四国本土と地続きとなったり、瀬戸大橋により本州・四国と結ばれている島もある。潮流が複雑なため、早くから優れた造船・航海術が伝わり、塩飽水軍を育んだ。1590(天正18)年、豊臣秀吉は優れた造船・航海術を認め、塩飽諸島の650人の船方に朱印状を下賜し、自治権と1,250石の領有を認めるかわりに、必要に応じて船方として出役することを義務づけた。島々はどの藩にも属さない人名領とされ、人名から選出された年寄によって政治が行われた。のちに徳川幕府にも受け継がれ、明治維新まで続いた。1798(寛政10)年には本島に塩飽勤番所がおかれ、3人の年寄が交代で政務をとった。
 1672(寛文12)年、河村瑞賢により西廻航路を確立すると、塩飽の島民はその運航を一手に担い、島々は大いに繁栄した。諸国の港を出入りする廻船が金毘羅大権現の旗を掲げていたことから、金毘羅大権現が航海の神として広く知られるようになったとも言われる。1721(享保6)年に、廻船の運航権を大坂の廻船問屋に奪われると、島民はそれまでの船大工の技術を生かし家大工や宮大工へと転身し、塩飽大工と呼ばれ瀬戸内海沿岸を中心に建築を行った。吉備津神社本拝殿、備中国分寺五重塔(ともに岡山県)と善通寺五重塔(香川県)は塩飽大工の手によるものといわれる。また、幕末になると再び水軍の操船技術が必要となり、咸臨丸の乗組員(水夫)50人のうち35人が塩飽出身者であった。
 塩飽諸島では土葬の時代、一人の死者に対して死体を埋める「埋め墓」と魂を祭る「参り墓」を作る「両墓制」が見られた。今でも、両方の墓に参る島民が多い。
*本島:丸亀市の海上約10kmにある、面積6.74km2、周囲16.4km、人口333人(2018年1月1日現在)の島。丸亀港からフェリーで35分。塩飽諸島の政治・文化の中心地で、海上交通の要所として古くから開かれた。