丸亀城まるがめじょう

丸亀市のシンボルともいえる丸亀城は、標高66mの亀山に築かれた平山城で、「石垣の名城」として有名である。山麓の内堀から山頂の本丸まで、渦を巻くように4層に重ねられた石垣の高さの合計は60mにもなり、総高としては日本一高い*。緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂にいくにつれ垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」が見る者を魅了する。
 室町時代初期 に管領・細川頼之重臣の奈良元安が亀山に砦を築いたのがはじまりで、江戸時代に入り、高松藩主・生駒親正が西讃防備のため、高松城の支城として1597(慶長2)年から5年がかりで築いた。1615(慶長20・元和元)年の「一国一城令」により一度は廃城となったが、1641(寛永18)年の生駒家のお家騒動により讃岐が分割され、丸亀藩が立藩。天草郡、富岡城主山﨑家治が藩主となり、城の大改修が行われた。1645(正保2)年に再築を願い出る際に幕府に提出した「正保城絵図」(国立公文書館所蔵)によると山上の縄張りはほぼ現在と一致し、現在残っている石垣は、ほとんどが山﨑時代のものであると考えられる。山﨑氏は世継ぎがなく3代で断絶し、1658(明暦4・万治元)年、播磨国龍野(現兵庫県たつの市)から京極高和が入り、明治まで京極氏7代の居城となった。
 石垣の上に鎮座する白亜の天守は1660(万治3)年の建造で、現存する木造十二天守の一つである。三層三階で高さ15mと現存天守のなかでも小規模なものだが、唐破風や千鳥破風を巧みに配置し、北側には石落しや素木の格子を付け、意匠を凝らしている。内堀以内の20万m2あまりが国の史跡に指定され、公園として、花見や散歩など市民の憩いの場になっている。天守のほか、大手一の門・大手二の門・藩主玄関先御門・番所・御籠部屋・長屋が現存している*。
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みどころ

小山を丸ごと石垣で包んだような城は、車窓や丸亀港に入る船からも見える丸亀のランドマーク。山上の小ぶりな天守との対比で、より要塞のような威容が際立つ。大手の外門である大手二の門は高麗門*形式で、入ったところが大きな桝形になっている。右手にある大手一の門は、正門らしい威厳と風格を備えた櫓門(やぐらもん)で、藩士が太鼓を打ち、刻(とき)を知らせていたことから「太鼓門」とも呼ばれている。内部を一般公開しており、城を防御するための石落としの仕掛けなどが見学できる。一の門をくぐり西へ進むと、旧藩主居館の表門だった玄関先御門前の広場になっている。玄関先御門は薬医門形式で、屋根越しに見える天守との調和がすばらしい。
 大手門から山上に向かう坂道は「見返り坂」と呼ばれる急坂で、本丸まで続く登りはかなり険しい。三の丸広場の南東の隅にある月見櫓跡からは、ゆるやかに流れる土器川と飯野山の姿が美しく見える。二の丸にはたくさんの桜が植えられており、花の時季は見事である。広場の中央にある「二の丸の井戸」は日本一深い井戸といわれており、その水面は三の丸北石垣の真ん中ぐらい、水深は30m以上ある。苦労して登った本丸にある天守は、想像以上に小さいという印象をもたれがちだが、内部が公開されており、瀬戸内海の眺望がよい。(勝田 真由美)
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補足情報

*地上部において、単独で最も高い部分は三の丸石垣で25mある。
*大手門と天守が両方とも現存しているのは丸亀城のほかは、弘前城と高知城のみである。
*高麗門は2本の本柱の上に冠木を渡して小さな切妻屋根を被せ、鏡柱と内側の控え柱の間にも小さな切妻屋根を被せた門。本柱と控え柱の全体に屋根をかけた薬医門に対し、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らすことができる。
*2018(平成30)年の西日本豪雨と台風24号の影響などにより、丸亀城跡の南西部に位置する帯曲輪石垣と三の丸坤櫓跡石垣の一部が崩落した。復旧工事は2024(令和6)年3月末までの5年計画。2019(令和元)年12月、崩落した石垣の正面に石垣復旧PR館がオープンし、復旧状況などの情報発信を行っている。
関連リンク 石垣の名城 丸亀城(丸亀市)(WEBサイト)
参考文献 石垣の名城 丸亀城(丸亀市)(WEBサイト)
うどん県旅ネット(公益社団法人香川県観光協会)(WEBサイト)
『香川県の歴史散歩』山川出版社

2022年11月現在

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