県東部、道路一本隔てて志度湾に接する四国霊場八十八ケ所第86番札所。625(推古天皇33)年の創建と伝わる古刹で、海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が浦に流れ着いた霊木から十一面観音像を彫り、堂に祀ったのが始まりとされる。681(天武天皇10)年に藤原不比等が堂宇を増築し、「死渡(しど)道場」と名づけ、693(持統天皇7)年に藤原房前が堂宇を整え「志度寺」に改めた。
 室町時代には、四国管領・細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。その後、藤原氏末裔である讃岐国領主・生駒親正による支援を経て、高松藩主・松平頼重の寄進などにより再興された。その松平頼重が1670(寛文10)年頃、寄進した山門は全国的にも珍しい三棟造*で、木造金剛力士像は鎌倉時代、運慶の作と伝えられている。五重塔*は1975(昭和50)年5月に建造された新しいものだが、総ひのき造りの本式木造建築である。境内は広く、そのほかにも奪衣婆(だつえば)堂、閻魔(えんま)堂、宝物館、書院、曲水式庭園、枯山水の無染庭(むぜんてい)などがある。
 能楽の作品「海士(あま)」のモチーフとなった「海女の玉取り」伝説*でも知られており、本堂の左奥に海女の供養に立てた20基ほどの五輪塔と経塚がある。海女の命日である7月16日には、年に一度、本尊十一面観音が開帳される。
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みどころ

志度寺は海岸近くにあり、はじめに「死渡道場」と名づけられたように、補陀洛渡海の思想や仏教の死生観をよく表している。本堂脇にある奪衣婆(だつえば)堂は三途の川で衣類を剥ぎ取るとされる奪衣婆を祀っている。閻魔堂の閻魔大王は本尊の十一面観音と同体とされ、頭上に十一面の仏面を頂き、死者を裁くだけでなく、極楽往生・蘇生の権能を持つとされている。四国遍路には死後の再生を願って閻魔堂に参詣する習俗が伝わっており、その精神的源流がここに垣間見える。
 曲水式庭園は室町時代の守護・細川氏の寄進によるもので、天に向かいそびえる力強い石組が印象的であるが、残念ながら水がない状態である。この庭園に続く無染庭は重森三玲*の作品で、禅式枯山水庭の定型を採り、「海女の玉取り伝説」の情景を七個の石と苔むした岩、そして庭一面に敷き詰めた白砂で表現している。
 開創1400年記念事業「令和の大修理」で境内の通路や植栽が整い、宝物館で志度寺縁起絵図をはじめ豊富な仏像・仏画・書状が公開され、曲水式庭園に水が流れ、書院から心静かに無染庭を眺められる日が来るのが待ち遠しい。(勝田 真由美)
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補足情報

*三棟造(みつむねづくり):門の前後に屋根が一つずつあり、さらにその上に全体の屋根がある。屋根の棟が3本あるので、三棟造という。門の柱以外の控柱が八本あるので、八脚門とも呼ばれる。
*五重塔:四国霊場八十八ケ所の中で、五重塔があるのは31番竹林寺、70番本山寺、75番善通寺、86番志度寺の4ヶ所。
*「海女の玉取り」伝説:その昔、唐に嫁いだ藤原鎌足の娘、白光が亡き父の供養物として数々の宝物を兄の藤原不比等に届けようとした。ところが、「面向不背の玉」を志度沖で竜神に奪われてしまった。不比等はこれを取り戻すため、身分を隠して志度へやって来て、土地の海女と恋に落ち、息子の房前が生まれた。事情を知った海女は、海に潜って竜神から玉は取り返したが傷を負って息絶える。後年、房前は千基の石塔を立て母の冥福を祈ったという。
*重森 三玲(しげもり みれい)1896~1975年:昭和期の作庭家・日本庭園史の研究家。独特のモダンな感性を取り入れた枯山水庭園を各地に残す。代表作は東福寺方丈庭園(京都府)、光明院波心庭(東福寺塔頭)、松尾大社庭園(京都府)など。
関連リンク 補陀洛山 志度寺(WEBサイト)
参考文献 補陀洛山 志度寺(WEBサイト)
香川県さぬき市(さぬき市役所)(WEBサイト)
うどん県旅ネット(公益社団法人香川県観光協会)(WEBサイト)
『香川県の歴史散歩』山川出版社

2022年11月現在

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