鶴林寺かくりんじ

四国八十八か所第20番札所。最寄り駅はJR牟岐線立江駅で南西12km、バスは徳島駅からになる。
 生名バス停の南が、鶴林寺参道の入り口で、ここから標高550mの鶴ノ嶽山頂まで急傾斜の山道が3km続く。この道は四国霊場の中でも有名な難所である。参道には、道標の丁石*が11基残っている。車の場合は、鶴林寺表参道入口のすぐ西側からドライブウエーを利用すれば、約20分でのぼれる。うっそうとした樹林の中に、本堂・六角堂・三重塔などが立ち並んでいる。本堂前の階段を下りると、左手に護摩堂と大師堂・本坊がある。
 798(延暦17)年の創建に空海が関わり、霊鷲山や鶴林寺の命名があったという逸話*やそののち、2世真然*が七堂伽藍を完成させたともいわれるが、「勝浦郡誌」によれば大僧都法印宥遍大和尚の開山らしい。しかし、その年暦等は不明で、宥遍大和尚以降8世が棟札に1486(文明18)年、9世宥世が1585(天正13)年の遷化とある。歴代の天皇家の信仰篤く、戦国大名の三好氏・徳島藩主蜂須賀氏*からも保護が加えられた。
 主な建物の建築年は、一説に、本堂が1604(慶長9)年に再建、六角堂は1861(万延2・文久元)年、三重塔は1823(文政6)年である。蜂須賀氏以前の遺物には本堂正面の石段下にある御影の丁石がある。
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みどころ

阿波の難所として「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」といわれる。札所12番の焼山寺、21番太龍寺と並んで、20番鶴林寺はいまでも歩く人には難所である。
 境内は、運慶の作ともいわれる仁王像のある山門を入ると、すぐ右手に六角堂があり、弘法大師作と伝えられる御砂地蔵尊6体が安置されている。少し入って石段を右にのぼると、本堂があり、本尊の木造地蔵菩薩像(国重文、京都博物館に寄託)は、一木造りの彩色像で平安時代後期の作とみられる。本堂の右には県内唯一の三重塔が立つ。工事に着手してから完成まで10年もの期間を要した。じつに美しい塔である。
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補足情報

*丁石:いずれも花崗岩製で、幅と厚さはいずれも約17cm。五輪塔形卒塔婆を祖型とする模式的丁石である。多くが磨滅しているが、9基には刻銘があり、年号や願主の名が見える。年号は北朝の「貞治三(1364)年」が最も古く、判明できるものでは、県内最古の丁石とされる。
*創建の関わる逸話:空海が太龍寺(現在、札所21番)を創建しているとき、北に望む山が古伝法輪の霊地という夢告を得て、同地に赴いたところ、老杉の梢に、雌雄2羽の鶴が翼を広げて1寸8分(約5.5cm)の黄金の地蔵菩薩を守護していた。これに歓喜した空海は、霊木に3尺(約91cm)の地蔵菩薩像を刻み、黄金の地蔵菩薩像を胎内仏として納め本尊としたという話が伝わっている。
実際に、太龍寺へのロープウエーから、左手奥、山中に鶴林寺が見える。
*真然:平安時代前期、真言宗の僧。中院僧正・後僧正とも称される。空海の甥にあたる。高野山第二世として、空海から高野山の経営を引き継ぎ、56年にわたり尽力した。生年は不明、891(寛平3)年に没した。
*蜂須賀氏:戦国〜江戸時代の大名。尾張の小土豪出身。正勝・家政父子が織田信長、豊臣秀吉に仕え、功を立て1585(天正13)年阿波国に封じられ,家政の子至鎮(よししげ) のとき徳川家康に仕え大坂の役の功により淡路を加封された。代々25万7,000石,徳島城主。幕末には公武合体派に加わった。明治維新後侯爵となる。
関連リンク 四国八十八ヶ所霊場会(一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会)(WEBサイト)
参考文献 四国八十八ヶ所霊場会(一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会)(WEBサイト)
阿波ナビ(一般財団法人徳島県観光協会)(WEBサイト)
『徳島の歴史散歩』徳島県の歴史散歩編集委員会 山川出版社

2023年02月現在

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