後楽園
旭川をはさんで岡山城の対岸にあり、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに日本の名園の一つとされる。岡山藩主池田綱政が家臣の津田永忠に命じて1687(貞享4)年に着工、1700(元禄13)年に一応の完成をみた。操山(みさおやま)をはじめとする東側の山を借景とした回遊式の明るく優美な庭園で、広い芝生や池、曲水、築山などが配されている。園内には藩主の居間である延養亭(えんようてい)や能舞台のほか、池の畔や林のなかにも建物が点在する。各所に配された石組も味わい深く、四季折々に梅、桜、ツツジ、花菖蒲、蓮、カエデなどの花や木々が色を添える。
築庭当時は延養亭から東側の沢の池までが芝生で、園内の大半は田畑であり、池田綱政はあまり手をかけていない田園風景を好んでいた。綱政の子、継政が園内中央に築山(唯心山)を築き、継政の孫、治政が倹約のため耕作人を減らし田畑を一時的に芝生に変えるなどして、次第に現在のような景観に変化していった。城の背後にあることから「後園」と呼ばれていたが、1871(明治4)年、池田家が日を決めて公開するにあたり「後楽園」*1と改め、1884(明治17)年には岡山県に譲渡されて広く一般に公開されるようになった。1934(昭和9)年の水害、1945(昭和20)年の戦災で大きな被害を受けたものの、江戸時代の絵図などに基づいて復旧を行い、江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれている。
築庭当時は延養亭から東側の沢の池までが芝生で、園内の大半は田畑であり、池田綱政はあまり手をかけていない田園風景を好んでいた。綱政の子、継政が園内中央に築山(唯心山)を築き、継政の孫、治政が倹約のため耕作人を減らし田畑を一時的に芝生に変えるなどして、次第に現在のような景観に変化していった。城の背後にあることから「後園」と呼ばれていたが、1871(明治4)年、池田家が日を決めて公開するにあたり「後楽園」*1と改め、1884(明治17)年には岡山県に譲渡されて広く一般に公開されるようになった。1934(昭和9)年の水害、1945(昭和20)年の戦災で大きな被害を受けたものの、江戸時代の絵図などに基づいて復旧を行い、江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれている。
みどころ
日本に広く自生する野芝を大量に使用していることが特徴で、林を周縁部に配し、広々とした中央部は明るく開放感があり、散策するのに気持ちがよい。高さ約6mの唯心山からは園内を一望でき、園路や池と水路のレイアウトを俯瞰できておもしろい。
藩主の居間として使用された延養亭からは、軒先の前庭に続いて芝生が広がり、沢の池や唯心山の向こうには操山が見え、奥行きのある景観を味わうことができる。戦災で焼失したが、1960(昭和35)年に当時の最高の木材を集め、築庭時の間取りに復元された。普段は非公開で、年2回特別公開される。延養亭の西には、1958(昭和33)年に能舞台、1967(昭和42)年に「栄唱の間」、「墨流しの間」が、継政時代の遺構に基づいて復元されている。古式ゆかしく舞台と観客席(座敷)が別棟で、舞台正面の「栄唱の間」は「花葉の池」をのぞむ南側の眺めもよい。脇正面の「墨流しの間」は床(とこ)の壁に墨を流したような壁紙を貼っていたことからその名がある。能舞台では、現在も年に数回、能や狂言が上演されている。
岡山城側の南門を入って右手にある廉池軒は、綱政が好んで利用した建物の一つで、池に架かる「く」の字型の石橋や対岸の小島などが往時の姿を伝える。のちに唯心山が築かれたり、ひょうたん池ができて、周囲の景観が変わった。現在の廉池軒からの眺めは唯心山や池と水路の段差など起伏に富んだ景観となっている。
園内の随所に見られる石の使われ方も印象深い。唯心山の脇にある流店(りゅうてん)は1階に壁がないあずまやのような建物で、中央を流れる水路に美しい色の石を一列に並べている。花葉の池のふちに立つ大立石(おおだていし)は、高さ約7m、周囲約22mもある花崗岩を90数個に割って運び、もとの姿に組み上げたもの。慈眼堂の境内にある烏帽子岩も36個に割って運んだとされる。輪状の火袋が特徴的な延養亭前の茶庭型石灯籠は後楽園のシンボルにもなっている。
井田(せいでん)*2は、幕末に園内の田畑の一部を中国周時代の田租法にならって作ったもの。毎年6月にお田植え祭を行い、もち米を育てている。
藩主の居間として使用された延養亭からは、軒先の前庭に続いて芝生が広がり、沢の池や唯心山の向こうには操山が見え、奥行きのある景観を味わうことができる。戦災で焼失したが、1960(昭和35)年に当時の最高の木材を集め、築庭時の間取りに復元された。普段は非公開で、年2回特別公開される。延養亭の西には、1958(昭和33)年に能舞台、1967(昭和42)年に「栄唱の間」、「墨流しの間」が、継政時代の遺構に基づいて復元されている。古式ゆかしく舞台と観客席(座敷)が別棟で、舞台正面の「栄唱の間」は「花葉の池」をのぞむ南側の眺めもよい。脇正面の「墨流しの間」は床(とこ)の壁に墨を流したような壁紙を貼っていたことからその名がある。能舞台では、現在も年に数回、能や狂言が上演されている。
岡山城側の南門を入って右手にある廉池軒は、綱政が好んで利用した建物の一つで、池に架かる「く」の字型の石橋や対岸の小島などが往時の姿を伝える。のちに唯心山が築かれたり、ひょうたん池ができて、周囲の景観が変わった。現在の廉池軒からの眺めは唯心山や池と水路の段差など起伏に富んだ景観となっている。
園内の随所に見られる石の使われ方も印象深い。唯心山の脇にある流店(りゅうてん)は1階に壁がないあずまやのような建物で、中央を流れる水路に美しい色の石を一列に並べている。花葉の池のふちに立つ大立石(おおだていし)は、高さ約7m、周囲約22mもある花崗岩を90数個に割って運び、もとの姿に組み上げたもの。慈眼堂の境内にある烏帽子岩も36個に割って運んだとされる。輪状の火袋が特徴的な延養亭前の茶庭型石灯籠は後楽園のシンボルにもなっている。
井田(せいでん)*2は、幕末に園内の田畑の一部を中国周時代の田租法にならって作ったもの。毎年6月にお田植え祭を行い、もち米を育てている。
補足情報
*1 中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」(天下の憂に先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)にもとづいて築庭されたと考えられることからの改名。
*2 井田:中国で周代に行われたとされ、孟子などの儒者によって理想化された土地制度。四角形の田を井の字形に9等分し、周囲の8区分を私田として8戸に分け、中央の1区分を公田として共同耕作し、その収穫を税として納める。
*2 井田:中国で周代に行われたとされ、孟子などの儒者によって理想化された土地制度。四角形の田を井の字形に9等分し、周囲の8区分を私田として8戸に分け、中央の1区分を公田として共同耕作し、その収穫を税として納める。
関連リンク | 岡山後楽園 公式サイト(WEBサイト) |
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参考文献 |
岡山後楽園 公式サイト(WEBサイト) 岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト) 「岡山後楽園史」岡山県・岡山県郷土文化財団 岡山市公式観光情報 OKAYAMA KANKO.net (公益財団法人おかやま観光コンベンション協会)(WEBサイト) |
2024年10月現在
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