吉備津神社
岡山市西部、吉備の中山*(標高175m)の西麓に鎮座する。当地を治めたとされる大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)*を主祭神とし、その一族の神々を祀っている。創建時期は不詳だが、927(延長5)年に撰進された延喜式神名帳では、すでに名神大社に列せられていた古社で、吉備国総鎮守として崇敬されてきた。7世紀後半頃、吉備国の三国(備前・備中・備後)への分割により備中一宮となったが、備前・備後には同社から分霊勧請(岡山市・吉備津彦神社、福山市・吉備津神社)されたため、「三備一宮」とも称される。
現在の本殿は、勅命を受けた足利義満により、25年の歳月をかけて1425(応永32)年に再建されたものである。入母屋造の屋根を前後に並べ、それぞれの棟を同じ高さの縦の棟で連結し、一つの大屋根にまとめた構造で、上から見ると棟がカタカナの「エ」の字型になっている。この建築様式は「比翼入母屋造」とよばれ、全国唯一であることから「吉備津造」とも称される。本殿の屋根は檜皮葺、同じく檜皮葺で正面が切妻造妻入り、本瓦葺の裳階(もこし)を付けた拝殿が、背面で本殿に直結している。本殿と拝殿は合わせて1棟として国宝に指定されている。本殿から続く約360mの廻廊が、えびす宮、御竃殿、本宮社など多くの摂社末社をつないでいる。御竃殿で行われる、釜の鳴り方によって吉凶を占う鳴釜神事*が有名。
現在の本殿は、勅命を受けた足利義満により、25年の歳月をかけて1425(応永32)年に再建されたものである。入母屋造の屋根を前後に並べ、それぞれの棟を同じ高さの縦の棟で連結し、一つの大屋根にまとめた構造で、上から見ると棟がカタカナの「エ」の字型になっている。この建築様式は「比翼入母屋造」とよばれ、全国唯一であることから「吉備津造」とも称される。本殿の屋根は檜皮葺、同じく檜皮葺で正面が切妻造妻入り、本瓦葺の裳階(もこし)を付けた拝殿が、背面で本殿に直結している。本殿と拝殿は合わせて1棟として国宝に指定されている。本殿から続く約360mの廻廊が、えびす宮、御竃殿、本宮社など多くの摂社末社をつないでいる。御竃殿で行われる、釜の鳴り方によって吉凶を占う鳴釜神事*が有名。
みどころ
旧山陽道から続く松並木の参道に長い歴史を感じる。石段を上る途中でくぐるのが重要文化財の北随神門。正面5間、側面8間の雄大な本殿は傾斜地に建てられており、水平を保つため白漆喰で築いた「亀腹」に支えられている。本殿内部は、外陣、朱(しゅ)の壇、中陣、内陣、内々陣と、中央にいくにしたがって、床も天井も高くなっており、朱塗り、丹、胡粉(ごふん)などで美しく塗装し、仏教建築の影響を受けた意匠もみられる。本殿南側の廻廊は自然の傾斜にしたがいつつ、真っすぐに伸びて美しい。途中にある南随神門は、南北朝時代の1357 (延文2)年の再建といわれ、この神社で最も古い社殿である。廻廊の周辺には、梅林、ぼたん園、あじさい園、つばき園があり、季節の花も楽しめる。御竃殿は神事中の見学はできないが、外観の参拝は可能。一般の人からの神事の申し込みも受け付けている。
また、境内には、吉備津彦命が温羅との戦いで矢を置いたとされる「矢置岩」があり、正月3日に「矢置岩」のそばから神矢を射て災いを祓う「矢立神事」が行われる。春と秋の大祭では、御供殿(ごくうでん)から回廊を通り本殿まで75の膳を次々に運んで供える、「七十五膳据神事(しちじゅうごぜんすえしんじ)」が行われる。
また、境内には、吉備津彦命が温羅との戦いで矢を置いたとされる「矢置岩」があり、正月3日に「矢置岩」のそばから神矢を射て災いを祓う「矢立神事」が行われる。春と秋の大祭では、御供殿(ごくうでん)から回廊を通り本殿まで75の膳を次々に運んで供える、「七十五膳据神事(しちじゅうごぜんすえしんじ)」が行われる。
補足情報
*吉備の中山:北東から南西に伸びる稜線が備前国と備中国の境界線とされ、西麓(備中)に吉備津神社、北東麓(備前)に吉備津神社から分霊した吉備津彦神社が鎮座する。古来神を祀る山として信仰され、『枕草子』や『古今和歌集』にも出てくる。多くの古墳や古代祭祀遺跡が残り、山の中心部には吉備津彦命の墓とされる中山茶臼山古墳(宮内庁管理)、北峰には吉備津彦神社が祀る磐座(いわくら)がある。
*大吉備津彦命:吉備津彦命のこと。記紀では本来の名は(ヒコ)イサセリヒコノミコト(比古伊佐勢理毘古命・五十狭芹彦命)。第7代孝霊天皇の皇子。『日本書紀』によると、第10代崇神天皇の時代、大和朝廷に従わず各地で反乱を起こしていた賊徒を平定するために派遣された四道将軍のうちの一人で、西道(のちの山陽道)に派遣された。「桃太郎」のモチーフとなった「温羅(うら)伝説」では温羅を退治したとされる。
※「温羅伝説」:吉備地方に伝わる伝説で、鬼城山に住み、一帯を支配していた温羅が、村人を襲い悪事を重ねていたため、大和朝廷が派遣した吉備津彦命によって退治されるというもの。
*鳴釜神事:「温羅伝説」では、斬られてもなお唸り声を上げ続ける温羅の首を釜の下に埋めたと伝えられる。神事に奉仕する巫女(阿曽女)は伝説にならい、温羅の寵愛を受けた女性と同じ、阿曽出身の女性が代々務める。この神事は室町時代末期の書物に記されており、江戸時代には上田秋成の『雨月物語』の一篇、「吉備津の釜」で広く知られていた。
※吉備津神社の廻廊の南端から続く家並みはかつて宮内と呼ばれた門前町で、近世には多くの宿屋が建ち並び、歌舞伎の興行が行われるなど、山陽道でも屈指の歓楽街だった。江戸時代後期に興行に来た上方役者が地元の芸者衆に踊らせたのが起源という「宮内踊り」が伝わる。
*大吉備津彦命:吉備津彦命のこと。記紀では本来の名は(ヒコ)イサセリヒコノミコト(比古伊佐勢理毘古命・五十狭芹彦命)。第7代孝霊天皇の皇子。『日本書紀』によると、第10代崇神天皇の時代、大和朝廷に従わず各地で反乱を起こしていた賊徒を平定するために派遣された四道将軍のうちの一人で、西道(のちの山陽道)に派遣された。「桃太郎」のモチーフとなった「温羅(うら)伝説」では温羅を退治したとされる。
※「温羅伝説」:吉備地方に伝わる伝説で、鬼城山に住み、一帯を支配していた温羅が、村人を襲い悪事を重ねていたため、大和朝廷が派遣した吉備津彦命によって退治されるというもの。
*鳴釜神事:「温羅伝説」では、斬られてもなお唸り声を上げ続ける温羅の首を釜の下に埋めたと伝えられる。神事に奉仕する巫女(阿曽女)は伝説にならい、温羅の寵愛を受けた女性と同じ、阿曽出身の女性が代々務める。この神事は室町時代末期の書物に記されており、江戸時代には上田秋成の『雨月物語』の一篇、「吉備津の釜」で広く知られていた。
※吉備津神社の廻廊の南端から続く家並みはかつて宮内と呼ばれた門前町で、近世には多くの宿屋が建ち並び、歌舞伎の興行が行われるなど、山陽道でも屈指の歓楽街だった。江戸時代後期に興行に来た上方役者が地元の芸者衆に踊らせたのが起源という「宮内踊り」が伝わる。
関連リンク | 吉備津神社(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
吉備津神社(WEBサイト) 岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト) 岡山市公式観光情報 OKAYAMA KANKO.net (公益財団法人おかやま観光コンベンション協会)(WEBサイト) 「岡山県の歴史散歩」山川出版社 「まいられえ岡山」山陽新聞社 |
2024年10月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。