大原美術館
倉敷川沿い、美観地区の一画にある大原美術館は、1930(昭和5)年開館の西洋美術を中心とした私立美術館である。開館前年に亡くなった西洋画家の児島虎次郎*1を悼み、その支援者だった倉敷の実業家、大原孫三郎*2が設立した。大原家は地元屈指の大地主で、クラボウ(倉敷紡績株式会社)の創業家である。現在の高梁市成羽町出身の児島は、東京美術学校(現、東京芸術大学)に通うにあたり、大原家が設立した大原奨学会の奨学生となった。大原家の支援で3回にわたり渡欧し、画業の研鑚を積む傍ら、孫三郎の委嘱により西洋美術作品などの収集を行った。
館内には児島の収集品である、エル・グレコ《受胎告知》、クロード・モネ《睡蓮》を中心に、パブロ・ピカソ《頭蓋骨のある静物》のほか、ゴーギャン、マティス、ロートレックの世界的名画が展示されている。本館のほかに、1961(昭和36)年に開館した分館(改修工事のため休館中)と工芸・東洋館があり、約3,000件の美術品を収蔵している。
館内には児島の収集品である、エル・グレコ《受胎告知》、クロード・モネ《睡蓮》を中心に、パブロ・ピカソ《頭蓋骨のある静物》のほか、ゴーギャン、マティス、ロートレックの世界的名画が展示されている。本館のほかに、1961(昭和36)年に開館した分館(改修工事のため休館中)と工芸・東洋館があり、約3,000件の美術品を収蔵している。
みどころ
本館は、多くの大原家に関係する建築物を手掛けた薬師寺主計*3による古代ギリシャ・ローマ神殿風の建築。入口の正面には2体のロダンの彫刻が飾られている。最も有名な展示作品はエル・グレコの《受胎告知》であろうが、児島が作者本人から直接購入したといわれるモネの《睡蓮》やマティスの《マティス嬢の肖像》なども興味深い。世界的名画のコレクションにまじり、児島の作品もある。ベルギーに留学していたときに描かれた《和服を着たベルギーの少女》には、自らのルーツである東洋の文化と西洋文化の混交が表現されている。本物の西洋絵画を日本で公開したいという思いから作品収集をする一方、東洋人の西洋画家として独自の画風を模索した児島を象徴する作品で、児島への敬意と美術館の原点を示すものとして印象に残る。
工芸・東洋館は米蔵を染色家芹沢銈介のデザインによって改築した建物である。工芸館には民藝運動をリードしたバーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、棟方志功、芹沢銈介の展示室があり、東洋館には児島虎次郎が収集した中国の古美術などを展示している。工芸館横の池の睡蓮はフランスのモネの庭から株分けされたものである。分館は本館の南にあり、現在は休館中。本館と分館の間にある新渓園は、クラボウ創業者の大原孝四郎の別邸跡で、1921(大正10)年に倉敷町(現、倉敷市)に寄贈され、一般に開放されている。
工芸・東洋館は米蔵を染色家芹沢銈介のデザインによって改築した建物である。工芸館には民藝運動をリードしたバーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、棟方志功、芹沢銈介の展示室があり、東洋館には児島虎次郎が収集した中国の古美術などを展示している。工芸館横の池の睡蓮はフランスのモネの庭から株分けされたものである。分館は本館の南にあり、現在は休館中。本館と分館の間にある新渓園は、クラボウ創業者の大原孝四郎の別邸跡で、1921(大正10)年に倉敷町(現、倉敷市)に寄贈され、一般に開放されている。
補足情報
*1 児島虎次郎(こじま・とらじろう)(1881~1929):岡山県川上郡下原村(現、高梁市成羽町)生まれ。1904(明治37)年、東京美術学校西洋画科選科を2年飛び級で卒業、同研究科に進む。1907(明治40)年、東京府主催の勧業博覧会美術展で「なさけの庭」が1等賞を受賞、宮内省買い上げとなる。1908(明治41)年、ヨーロッパに留学。1912(明治45)年、ベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業し、帰国。その後も2度に渡り渡欧するほか、中国・朝鮮にも旅行した。1924(大正13)年、明治神宮奉賛会より明治天皇を讃える壁画の作成を依頼されたが、作品を完成させることなく、1929年(昭和4年)47歳で死去。
*2 大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう)(1880~1943): 1906(明治39)年、父孝四郎(こうしろう)の後を継ぎ倉敷紡績の社長に就任。倉敷絹織(現クラレ)を設立し本業を拡張する一方、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の経営にも参加し、関西の実業界で活躍した。20歳前後に岡山孤児院を創設した石井十次に接して社会問題に関心を持ち、労働環境の改善や農業改善、福祉事業、文化事業にも取り組んだ。
*3 薬師寺主計(やくしじ・かずえ):岡山県賀陽郡刑部村(現、総社市)生まれ。1909年東京帝国大学工科建築科を卒業後、陸軍省の技師として勤務する一方、郷里の有力者であった大原孫三郎の依頼により第一合同銀行倉敷支店(旧中国銀行倉敷本町出張所)の設計に携わる。1926年の陸軍省退職後、倉敷絹織(現、クラレ)の取締役に就任し、その経営に参画しながら大原美術館本館や倉紡中央病院(現、倉敷中央病院)、第一合同銀行本店(現、中国銀行)など、大原家の関わる施設を中心に多くの建築を手がけた。
※1972年から2017年まで倉敷アイビースクエア内に、大原美術館別館として「児島虎次郎記念館」が開設されていた。大原美術館では、倉敷市本町の旧中国銀行倉敷本町出張所の建物に、児島の作品と児島が収集した古代エジプトや西アジアの美術品を展示する「新児島館」(仮称)を開館する構想をもっていた。しかし、耐震工事の遅れや新型コロナの影響による経営状況の悪化により延期となっていた。2021年10月から2022年11月にかけて暫定開館したが、現在は2025年春の正式開館に向けて準備中である。新施設の名称は「児島虎次郎記念館」となることが決定している。
*2 大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう)(1880~1943): 1906(明治39)年、父孝四郎(こうしろう)の後を継ぎ倉敷紡績の社長に就任。倉敷絹織(現クラレ)を設立し本業を拡張する一方、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の経営にも参加し、関西の実業界で活躍した。20歳前後に岡山孤児院を創設した石井十次に接して社会問題に関心を持ち、労働環境の改善や農業改善、福祉事業、文化事業にも取り組んだ。
*3 薬師寺主計(やくしじ・かずえ):岡山県賀陽郡刑部村(現、総社市)生まれ。1909年東京帝国大学工科建築科を卒業後、陸軍省の技師として勤務する一方、郷里の有力者であった大原孫三郎の依頼により第一合同銀行倉敷支店(旧中国銀行倉敷本町出張所)の設計に携わる。1926年の陸軍省退職後、倉敷絹織(現、クラレ)の取締役に就任し、その経営に参画しながら大原美術館本館や倉紡中央病院(現、倉敷中央病院)、第一合同銀行本店(現、中国銀行)など、大原家の関わる施設を中心に多くの建築を手がけた。
※1972年から2017年まで倉敷アイビースクエア内に、大原美術館別館として「児島虎次郎記念館」が開設されていた。大原美術館では、倉敷市本町の旧中国銀行倉敷本町出張所の建物に、児島の作品と児島が収集した古代エジプトや西アジアの美術品を展示する「新児島館」(仮称)を開館する構想をもっていた。しかし、耐震工事の遅れや新型コロナの影響による経営状況の悪化により延期となっていた。2021年10月から2022年11月にかけて暫定開館したが、現在は2025年春の正式開館に向けて準備中である。新施設の名称は「児島虎次郎記念館」となることが決定している。
関連リンク | 大原美術館(公益財団法人大原芸術財団)(WEBサイト) |
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参考文献 |
大原美術館(公益財団法人大原芸術財団)(WEBサイト) 岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト) 倉敷観光WEB(倉敷市)(WEBサイト) 「岡山県の歴史散歩」山川出版社 |
2024年10月現在
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