旧閑谷学校きゅうしずたにがっこう

岡山藩主池田光政*によって創建された庶民のための教育機関。光政は岡山城内に藩校「岡山学校」を設けるとともに、藩内各地に123か所の手習所(てならいじょ)を設け、藩士や庶民の子弟の教育に力を注いだ。
 光政は池田家の菩提寺であった京都妙心寺護国院が焼失したのを機に、墓所を岡山に移すこととした。その候補地として、和気郡木谷村(のちの閑谷)と脇谷村(のちの和意谷)が挙げられた。光政は墓所を脇谷村に定め、木谷村をかねてから企図していた庶民の学校建設の適地として、1670(寛文10)年に仮学校を建て、重臣の津田永忠*を管理にあたらせた。1674年までに学房・飲室・講堂・聖堂などが完成したが、当時は茅葺きの質素な建物であった。1675(延宝3)年には、藩財政の逼迫から領内の手習所が閑谷学校に統合され、設備も拡充された。1682(天和2)年、光政の没後も、藩主の意を受けた津田永忠が力を尽くし、1701(元禄14)年に現在とほぼ同様の外観を持つ、堅固で壮麗な学校を完成させた。建物の屋根はこのときに、耐久性の高い備前焼の瓦で葺かれた。
 閑谷学校では地方の指導者を育成するために、武士だけではなく庶民の子弟も教育し、他藩の子弟も学ぶことができた。教育の中心は儒学で、多くの生徒は習字と素読を終えた段階で学校を離れ、地域で様々な役職について活躍し、優秀な生徒にはより高度な教育が行われた。運営には280石が永代付与され、明治まで講義が続けられた。
 明治維新後、一度は閉鎖されたが、1884(明治17) 年に閑谷黌(こう)として再興され、のちに旧制中学(私立)となり、1905(明治38) 年には学房跡に新校舎が建てられた。この校舎は1921(大正10) 年の岡山県への移管、戦後の学制改革を経て、1964(昭和39)年岡山県立和気高等学校閑谷校舎として閉鎖されるまで使用された。閉鎖の翌年から岡山県青少年教育センターに転用され、1991 (平成3) 年、センターの新築移転とともに資料館に改修され、現在に至る。
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みどころ

閑谷の名のとおり、山に囲まれた静かな谷に築かれた閑谷学校は、ほぼ創建当時の姿をとどめている。備前焼の瓦で葺かれた屋根と、建物の前に広がる芝生が美しい。周囲は総延長約765mの石塀で囲まれており、その大部分は⾼さ約2.1m、幅約1.8mのかまぼこ型になっている。近くで調達した溶結凝灰岩の切⽯を積み上げ、内部は雑草などが生えて崩れないよう、洗った割栗石を詰めてある。国宝の講堂は、入母屋造・しころ葺きの大屋根と側面に並ぶ火灯窓が印象的だ。磨き込まれた板張りの内室を支える10本のケヤキの円柱は、丸太の中心部に生じるゆがみを防ぐため、あらかじめ四つに割って芯を外して組み合わせている。講堂には、藩主が来校時に使用した小斎、学習室である習芸斎、休憩室の飲室が付属している。
 講堂の東側、敷地内でいちばん高いところに孔子を祀る聖廟があり、毎年10月下旬の釈菜(せきさい)時に孔子像が公開される。聖廟に上る石段の両脇には、こんもりと茂る楷の木(カイノキ)の巨木がある。1915(大正4)年に中国山東省曲阜の孔子廟から持ち帰った種子から育てたもので、紅葉の美しさで知られている。聖廟の東隣りの約1m下がった所に池田光政を祀る閑谷神社があり、その東には光政の遺髪、爪などを埋めた供養塚「御納所」がある。講堂の西側には火災防除のために作られた火除山(ひよけやま)があり、その西奥に生徒の生活する学房があった。今はその跡地に資料館が建つ。
 学校の東側にある岡山県青少年教育センターの脇を谷川に沿って400mほど行くと、1813(文化10)年、閑谷学校教授、武元君立らが文人墨客をもてなすために建てた茅葺きの茶室、黄葉亭がある。黄葉亭の北西には津田永忠宅跡がある。旧閑谷学校の手前約1kmに校地との境界を示す石門がある。数回にわたる埋め立てによって現在は地上に1mほどしか出ていないので、見逃さないようにしたい。
 岡山藩は学校に280石を付与し、学田や学林を運営させた。藩の財政から独立させることにより、転封や改易で藩主が交代しても、学校が存続するようにしたのである。建物を火災や雨から守り、長持ちさせる工夫もいたるところに見られる。明治以降、学房跡に建てられた校舎は旧制中学のちに高等学校となり、現在は隣接する岡山県青少年教育センターが県内の学校の校外学習や宿泊研修、一般の研修などに利用されている。池田光政が「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称賛した閑谷の地が、学びの場としてあり続けていることは感慨深い。
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補足情報

*池田光政(1609~1682):儒学に傾倒し、熊沢蕃山を登用、仁政を行うことを目指し、質素倹約の「備前風」を広めた。学問興隆に努める一方、津田永忠を起用し、治水事業や新田開発、産業振興等を進め、名君と称された。
*津田永忠(つだ ながただ)(1640~1707):備前岡山藩士。14歳のとき藩主池田光政の側児小姓として仕え、光政の信任を得て、25歳で藩政の最高評議機関である評定所に列座した。土木工事に精通し、治水事業、新田開発、後楽園の造営、閑谷学校の建築などに業績を遺した。