物部神社もののべじんじゃ

JR大田市駅から南へおよそ5km。平安時代の法令集「延喜式」に記載のある式内社で、古来より文武両道の神・鎮魂の神・勝運の神と知られ、石見国一の宮として崇敬されてきた。古代の大氏族物部(もののべ)氏*がこの地方を開拓の折、祖神を祭ったのが起こりと伝えられ、御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)は、古くの大豪族で大和朝廷の中枢を担った物部氏の祖神。宇摩志麻遅命は神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿し、社殿の背後にある八百山に葬られたと伝えられている。
 最初は神体山である八百山を崇めていたが、天皇の勅命により513(継体天皇8)年に社殿を創建し、その後、石見銀山争奪の兵火などで三度消失。1753(宝暦3)年に再建され、1818(文政元)年 の修理を経て、1856(安政3)年に宝暦時の規模で改修され現在に至る。
 変形春日造*、銅板葺、身舎(もや)と前拝の2間からなっている。社宝に大内義隆が奉納した重要文化財の太刀(銘了戒)と、鎌倉末期の太刀(銘雲生)がある。
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みどころ

神社によると、春日造としては日本一の大きさを誇り、古来より勝負事の際に詣でられてきた。「富金石」で造られた、触れることで勝運や財運などのご利益をもたらすといわれる手水石もある。また、日本刀の名刀である了戒(りょうかい)銘の太刀、雲上(うんじょう)銘の太刀の2振りもある。
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補足情報

*物部氏:古代の大豪族。古くから大伴氏と並んで大和朝廷の軍事、刑罰を司った。5世紀頃から大伴氏とともに大連となり、大伴氏失脚以後は、大臣蘇我氏と並んで朝政を牛耳った。崇仏の可否をめぐって蘇我氏一派と争って敗れ、物部氏の宗家は滅びた。
*春日造:奈良の春日大社の本殿に代表される神社建築の一形式。母屋は切妻屋根をもち、正面に高欄つきの木階をかける。階の上には片流れの階隠(はしかくし)を構え、屋根は軒の部分で連続する。