宇陀市松山の町並み
宇陀市松山は、近鉄大阪線榛原駅から南へ約7km、奈良盆地の南東、宇陀山地を流れる宇陀川流域に発達した町で、古くは柿本人麿呂*1の歌にも詠まれた宮廷の狩場、阿騎野(あきの)の地にあたる。戦国時代に「宇陀三将」と称された秋山氏*2がここを拠点として城砦を構えたが、のちに豊臣家の支配下になり、さらに江戸時代に入って1615(元和元)年には織田氏*3が入部し宇陀松山藩2万8,000石の陣屋町として整備が進んだ。しかし、織田氏は1695(元禄8)年に転封となり、その後は幕府直轄領となり、商家町として栄えた。このため、城下町の町割りの骨格は遺ったものの、京都・奈良・伊勢をつなぐ街道筋を中心とする町人町が発展した。町の中心、松山地区を通る「松山街道」は南へ行くと「南路伊勢街道」、北へ向かうと榛原経由で「伊勢本街道」、東に向かうと峠越えして「和歌山街道」に出る道筋だった。その街道筋界隈に現在も江戸後期から明治、大正、昭和初期の伝統的な町家が並び、約17万m2、282件(建築物155件、工作物99件、環境物件28件。2024年3月現在)を対象物件とした国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。そのなかには、現在、宇陀市歴史文化館「薬の館」として公開されている江戸末期の「旧細川家住宅」などもあり、往時の松山の町の盛栄を窺い知ることができる。
みどころ
松山地区は城下町として最初は成立したが、江戸中期から幕府直轄領となったため街道筋の町人町を中心に発展していくという歴史的な背景があり、町割り、町並みにもその面影が残る。特産の吉野葛ほか、薬草栽培、漢方薬製造、酒造業などが町の発展を支えてきたので、これらを生業としていた町家や現在も営業中の店舗も見られる。江戸中・後期、明治、大正、昭和初期と長い期間にわたって、この地域の経済、交通の要衝であったことから、町家の造りにもそれぞれ異なる時代の特徴が垣間見え、興味深い。
補足情報
*1 柿本人麻呂:人麻呂は万葉集(1巻46)でこの地を「安騎の野に宿る旅人 うち靡(なび)き寝も寝らめやも 古おもふに」(阿騎の野に宿りをする旅人たちは、手足を伸ばしてゆっくりと眠れようか、古の事を思うと:佐佐木信綱訳)と詠んでいる。
*2 秋山氏:中世の大和国宇陀郡には、秋山氏、芳野氏、沢氏ら「宇陀三将」といわれた国人領主がいた。そのうち宇陀松山では秋山氏が南北朝期に秋山城を築いたが、1585(天正13)年の豊臣秀長の大和郡山城入部により、秋山氏は伊賀に追放され、その後、秋山城は豊臣氏傘下となり、松山城と呼ばれるようになった。秋山氏は江戸期に入り、大坂冬の陣で豊臣側に組みし滅亡したと言われている。
*3 織田氏:初代宇陀松山藩主は、織田信長の第2子の信雄。大坂の陣で徳川方につき、上野国小幡と合わせ、5万石の所領を与えられた。
*2 秋山氏:中世の大和国宇陀郡には、秋山氏、芳野氏、沢氏ら「宇陀三将」といわれた国人領主がいた。そのうち宇陀松山では秋山氏が南北朝期に秋山城を築いたが、1585(天正13)年の豊臣秀長の大和郡山城入部により、秋山氏は伊賀に追放され、その後、秋山城は豊臣氏傘下となり、松山城と呼ばれるようになった。秋山氏は江戸期に入り、大坂冬の陣で豊臣側に組みし滅亡したと言われている。
*3 織田氏:初代宇陀松山藩主は、織田信長の第2子の信雄。大坂の陣で徳川方につき、上野国小幡と合わせ、5万石の所領を与えられた。
関連リンク | 松山地区まちづくりセンター「千軒舎」(WEBサイト) |
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参考文献 |
松山地区まちづくりセンター「千軒舎」(WEBサイト) 宇陀市「大宇陀・松山地区町家ガイド」(WEBサイト) 「伝統的建造物群保存地区 松山宇陀」パンフレット 奈良県観光局ならの観光力向上課「歩く・なら」(WEBサイト) 文化庁「伝統的建造物群保存地区 宇陀市」 |
2024年12月現在
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