近鉄大阪線室生口大野駅から南へ約6.5km、室生川の上流の山間にある。室生川にかかった朱塗りの太鼓橋を渡り、「女人高野室生寺」の石柱が立つ門前を右折して進めば、左手に寳物殿*1が見え仁王門となる。これをくぐり参道を直進し左に折れ、鎧坂の石段を登れば弥勒堂*2と金堂(国宝)*3が並び、一段上がると伽藍の中心となる国宝の本堂(灌頂堂)*4が立つ。本堂を右にみながら石段をさらに登れば、五重塔(国宝)*5に辿り着く。奥之院へはこの五重塔の裏手から急な石段を400段ほど登り詰めることになる。奥之院には深い緑の木立に囲まれた常燈堂と御影堂*6がある。伽藍の周辺にはサクラやシャクナゲが植えられており、4月から5月にかけて花開く。
 室生の地は古来、龍神*7の住む霊地として崇められていた。室生寺の創建については諸説あるが、宝亀年間(770~781年)に興福寺の高僧・賢憬*8らがこの地で、山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒を祈願したところ、霊験あらたかだったため、勅命により賢憬が寺を開き、弟子の修圓*9が伽藍を造営したといわれる。同寺では興福寺の法相宗を始め天台・真言・律宗などの高僧が山林修行*10を積んだとされ、鎌倉期には真言密教の影響*11をもっとも受けていたという。中世において室生寺は長く興福寺の勢力下にあり、一時は衰退する時期もあったが、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院*12の崇敬が篤く多額の寄進が行なわれ、1698(元禄11)年には、江戸護国寺の傘下に入ることとなり、真言宗に改宗した。このようなことから「女人高野」*13と呼ばれるようになったとされている。現在は真言宗室生寺派の大本山となっている。
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みどころ

五木寛之は「百寺巡礼」の第一巻で奈良を取り上げ、その一番目の寺として「室生寺」からはじめている。そのなかで「室生寺は山中の寺である。奈良県宇陀郡室生村。緑濃い杉木立につつまれて、山肌にはりつくように伽藍が散在する」と書き起こし、境内の様子、各伽藍、そこに安置されている仏像群について詳しく描写したうえで五木の思いを書き記している。とくに五重塔に「女人高野」の象徴性を強く感じており、「優美なすがたに目をうばわれた」、「杉木立のなかから、輝く金色の帯のような光が射しこむ。すると、一瞬、ひどく妖艶な風情を感じてどきりとした」など、多くの言葉を費やしている。もちろん、この五重塔以外の伽藍も、朱塗りの太鼓橋を渡ったところから、序曲が始まり、次々と参道、石段を進み上るたびに、深い森に包まれながら感動的な出合いが待っており、奥の深い信仰の歴史を感じとることができる。金堂、本堂も素晴らしいが、五木の指摘通り、五重塔がそのクライマックスのひとつと言ってよいだろう。それぞれの伽藍や寳物殿に安置されている仏像も造仏されたそれぞれの時代の特色・特徴が表現されており、じっくりと向かい合いたいものだ。
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補足情報

*1 寳物殿:寺宝が収蔵されている。国宝の十一面観音菩薩立像は像高196.2cm、榧材の一木造、彩色像で、左肘および両手首、天衣の一部のほかは、頭上の十一面まで共木(ともぎ)から刻んでいる。貞観時代の作。同じく国宝の釈迦如来坐像は弥勒堂の本尊に向かって右側に安置されていた仏像で、貞観時代の作。像高106.3cm、榧材の一木造で、目鼻立ちがよく整い、量感豊かで、法衣には美しい翻波式(ほんぱしき)衣文が見られる。このほか国指定の重要文化財の地蔵菩薩立像、十二神将立像(6躯)が拝観できる。
*2 弥勒堂:3間四方の入母屋造で、屋根は柿(こけら)葺。鎌倉時代の建立とみられるが、修圓が興福寺に創設した伝法院を室生寺に移設したとも伝えられている。室町、江戸期に修復されている。堂内には本尊の弥勒菩薩立像が安置されている。像高94.4cm、檀像風の一木造で、彩色も漆箔も施されてはいないが、細かい飾りや瓔珞(ようらく)を像本体から刻み出している。貞観時代のものとされる。なお、檀像風とは、香木の白檀を使ったような木目の美しさを生かした造りで、日本では白檀の代わりに榧などの針葉樹を使うことが多い。
*3 金堂:国宝。5間四方で、寄棟造、屋根は柿葺である。内部は外陣・内陣に分かれる。外陣部分の正面1間は、江戸時代に付加された。内陣部分は、貞観時代の建立とされる。内陣に安置される釈迦如来立像は国宝で像高234.8cm、榧材の一木造、彩色像である。堂々たる重量感があり、流麗な細い衣文の線を刻む。極彩色で宝相華・唐草文を描いた板光背もみごとである。貞観時代の作。十二神将立像は鎌倉時代中期の作で、像高は各100cm前後、桧材の寄木造、彩色像で目には玉眼を嵌入している。子神・丑神・午神・申神・戌神・亥神の6躯を安置している。他の6躯は寳物殿に収蔵。そのほか、国指定の重要文化財薬師如来立像、文殊菩薩立像なども安置されている。
*4 本堂(潅頂堂):国宝。5間四方の入母屋造、桧皮葺。1308(延慶元)年の建立で、堂内は、内陣・外陣に分かれ、その境界には中央3間を板扉とし、内部を密室化している。和様の建築様式だが、頭貫(かしらぬき)の妻飾木鼻や、桧唐戸などに大仏様(だいぶつよう)の影響が見られる。本堂内陣の厨子に安置する如意輪観音坐像は像高78.7cm、榧材一木造、漆箔像で貞観末期の作。木肌の傷みが著しく、眉目や衣文の彫りが不明瞭である。
*5 五重塔:国宝。3間四方、屋根は桧皮葺で高さ16.1m。老杉に囲まれて立つ。五重塔としては小さな造りで、優美で愛らしい。しかしながら、組物は三手先(みてさき)で、軒支輪(のきしりん)があり、地垂木(じだるき)は丸く、四天柱はわずかにエンタシスが認められるなど、本格的な平安初期の建築様式を示している。また、水煙(すいえん)を用いない相輪の意匠は独特のものである。
*6 御影堂:みえどう。3間四方の単層宝形造、杉厚板段葺である。鎌倉時代の建立。弘法大師空海像を祀っており、大師堂とも呼ばれる。
*7 龍神:室生寺から東、室生川に沿って1kmほど遡った所に室生龍穴神社があり、水の神、龍神を祀る。古くから朝廷から雨乞いの使者が遣わされていたといわれている。
*8 賢憬:賢璟とも書く。けんきょう、または、けんけい。714~793年。奈良時代末から平安初期の法相宗の学僧で大僧都。鑑真より受戒。桓武天皇の精神的支柱になったともいわれ、平安遷都計画のために地相を調べに行ったことでも知られる。
*9 修圓:771~835年。奈良時代末から平安時代前期の法相宗の学僧。賢憬の弟子。興福寺別当となり、最澄から灌頂をうけた。また空海とも交流があった。 
*10 山林修行:仏教においても山は聖なるものと考えられており、日本においても仏教が広まるにつれ、教義の整備が進むとともに、実践的な修行が求められるようになり、苛酷な自然条件を堪え苦行を行う修行の場として山林修行が行われるようになった。山林修行を通じての呪験力の獲得が目指されたことから、8世紀に入ると、この呪験力を「鎮護国家」にも取り込もうと、朝廷も寺院での教学を求めるとともに、山林修行を自らの統制下で保護した。室生寺の創建もこのような背景のもとに行われたと考えられている。
*11 真言密教の影響:「宀一山(べんいちさん)室生寺略縁起」などには、「仁王四十代天武天皇乃勅願白鳳九年役乃優婆塞の草創なり。其後一百五十乃星霜を歴々五十三代淳和天皇乃勅を奉て空海和尚乃再建なり」として同寺と役行者や空海の関係を記しているが、真言密教の影響とみられる。 
*12 桂昌院:1627~1705年。京都の八百屋仁左衛門の次女。二条家の家司本庄宗正の養女として徳川家光の側室に入り、徳川綱吉の生母となった。仏教信仰が篤く、生類憐みの令にも関わりがあったとされる。室生寺の表門前の「女人高野室生寺」石碑上部には、実家である本庄家の家紋「九目結紋」が彫られており、境内には室生寺の堂塔を修繕した功績を讃え、桂昌院の五輪塔もある。
*13 女人高野:室生寺への女人参詣が行われた最初の記録は、1450(宝徳2)年、九条家不断光院の尼僧衆によるものとされているが、それ以前からも女性の参詣はあったともされている。