今井町の街並み
近鉄橿原線八木西口駅から南西へ200~1,000mほどのところに広がる古い街並み。東西約600m、南北約310m、面積にして約17.4万m2が国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。地区内には約500件の伝統的建造物があり、9件*1は国の重要文化財に指定されている。
今井町は、古くは興福寺一乗院の荘園であったが、15世紀後半に大和で浄土真宗(一向宗)が浸透を深め本願寺との関係が強まり、天文年間(1532~55)に本願寺の一家衆今井兵部が称念寺*2の前身となる本願寺の道場を開いた。そして他宗派や戦国大名など外部の攻撃から僧侶や門徒を守るために、環濠を巡らし武力も備えた寺内町*3としての「今井郷」が成立した。浄土真宗(一向宗)門徒と織田信長との間では激しい抗争があったが、織田信長による大和平定後の1575(天正3)年には、堺の豪商や明智光秀の仲介で、武装放棄を条件に「今井郷」には座や課税などに関する自治権が認められ、行政権も付与される朱印状*4が下された。これを契機に南大和地方の商工業の中心都市として発展し、「今井千軒」と呼ばれるほどになった。それに伴い、富裕な商工業者によって茶道、華道、能楽、和歌、俳諧などの文化が花開いた。
江戸時代には、当初は今西家、今井家が自治権をもって治め、1621(元和7)年からは惣年寄制となり、尾崎家、次いで上田家が加わった。1679(延宝7)年に自治権は保持したまま、天領に組み入れられ、今井家が仏事に専念することになり、三惣年寄制となった。江戸中期くらいまでは「大和の金は今井に七分」と言われるほど繁栄したものの、徐々に、江戸幕府による締め付けが激しくなり、江戸後期には衰退の兆しがみえるようになった。明治期に入ると鉄道の開通や産業構造の変化などによって、南大和の中心都市としての役割を終え、現在は、江戸初期から昭和初期にかけての様々な様式の町家が軒を並べる、静かな近郊都市の街並みとなっている。この町の伝統的建造物群の特色として、本瓦葺または桟瓦葺の屋根を持つ「平屋(ひらや)」、「厨子二階(つしにかい)」*5などの町家が並び、その2階の壁面には、「虫籠窓(むしこまど)」*6、「家紋」などの意匠が施されていることなどが挙げられる。
今井町は、古くは興福寺一乗院の荘園であったが、15世紀後半に大和で浄土真宗(一向宗)が浸透を深め本願寺との関係が強まり、天文年間(1532~55)に本願寺の一家衆今井兵部が称念寺*2の前身となる本願寺の道場を開いた。そして他宗派や戦国大名など外部の攻撃から僧侶や門徒を守るために、環濠を巡らし武力も備えた寺内町*3としての「今井郷」が成立した。浄土真宗(一向宗)門徒と織田信長との間では激しい抗争があったが、織田信長による大和平定後の1575(天正3)年には、堺の豪商や明智光秀の仲介で、武装放棄を条件に「今井郷」には座や課税などに関する自治権が認められ、行政権も付与される朱印状*4が下された。これを契機に南大和地方の商工業の中心都市として発展し、「今井千軒」と呼ばれるほどになった。それに伴い、富裕な商工業者によって茶道、華道、能楽、和歌、俳諧などの文化が花開いた。
江戸時代には、当初は今西家、今井家が自治権をもって治め、1621(元和7)年からは惣年寄制となり、尾崎家、次いで上田家が加わった。1679(延宝7)年に自治権は保持したまま、天領に組み入れられ、今井家が仏事に専念することになり、三惣年寄制となった。江戸中期くらいまでは「大和の金は今井に七分」と言われるほど繁栄したものの、徐々に、江戸幕府による締め付けが激しくなり、江戸後期には衰退の兆しがみえるようになった。明治期に入ると鉄道の開通や産業構造の変化などによって、南大和の中心都市としての役割を終え、現在は、江戸初期から昭和初期にかけての様々な様式の町家が軒を並べる、静かな近郊都市の街並みとなっている。この町の伝統的建造物群の特色として、本瓦葺または桟瓦葺の屋根を持つ「平屋(ひらや)」、「厨子二階(つしにかい)」*5などの町家が並び、その2階の壁面には、「虫籠窓(むしこまど)」*6、「家紋」などの意匠が施されていることなどが挙げられる。
みどころ
近鉄の八木西口駅方面から、飛鳥川を渡り、今井町に入った途端、時代が遡り、異空間にまぎれこんだような感覚になる。東西約600m、南北約310mの長方形の街並みのなかに、江戸時代から現代までの家々が建ち並んでいる。多くは江戸から昭和初期のもので、路地に入ると、迷宮に入った感じすらし、内部を見学できる家々を回るだけで、2時間はたっぷりかかる。しかも、途中、杉玉の掛けられた老舗の酒蔵もあれば、古民家を活用したしゃれたカフェ・レストランや、クラフト工房が入る古民家があったり、楽しい出会い、発見が多い。
補足情報
*1 9件:今西家住宅、旧米谷家住宅、高木家住宅、音村家住宅、中橋家住宅、豊田家住宅、上田家住宅、河合家住宅、称念寺本堂。このうち内部見学できるのは旧米谷家住宅、高木家住宅、中橋家住宅、河合家住宅、(以下は見学できるが要予約)今西家住宅、音村家住宅、上田家住宅。なお予約不要でも不定休の住宅があるので注意。このほか、18世紀の町家を修理し公開施設とした「今井まちや館」も内部見学できる。
*2 称念寺:豪壮な伽藍で、今井の繁栄ぶりが分かる。今井家は代々「兵部」を名乗り、武釈兼帯として町を治めていたが、1679(延宝7)年に僧侶に専念することになり、現在も称念寺住職として代を重ねている。現在の本堂は江戸時代前期の建立で、桁行19.9m、梁間21.4m、入母屋造、本瓦葺。国の重要文化財に指定されている。
*3 寺内町:室町から戦国時代に僧侶・門徒を守るために環濠を巡らし武装した郷町のことで、とくに浄土真宗(一向宗)の勢力が強かった畿内・北陸などにおいて形成された宗教的な城塞都市。自治権を握る所も多かった。今井町をはじめ、越前吉崎、越中井波、石山本願寺、河内の久宝寺や富田林などが寺内町として挙げることができる。そのなかでも今井町は隆盛ぶりが知られ、また、往時の雰囲気を現在によく残している。
*4 朱印状:江戸時代前期に書かれた「大和軍記」では「今井村と申所ハ兵部と申一向坊主の取立申新地にて候 此兵部器量ものにて四町四方に堀を堀廻し土手を築き内に町割りをいたし方々より人をあつめ家をつくらせ國中へ商等をいたさせ又ハ牢人をはあつめ置申候」とし、織田信長に反抗したが降伏したので、「成矢倉等をおろさせ兵部ハ其まま信長公御赦免に御立置候彌 先規に不相替今井の支配仕宗門相續仕候様にと信長公朱印を給り 其以後秀吉公御代にも右之通の御朱印給り候」と、信長は武装解除を条件に兵部にそのまま今井を支配させ、宗門を続けることも許し、秀吉も引き続き認めたと記している。
*5 厨子二階:道路に面した、天井高を低くし中2階のような部分のこと。主に物置として使用されていた。
*6 虫籠窓:正面や裏面の「厨子(つし)」の部分の壁に、採光と通風のための開口部。それぞれの町家で様々な意匠が施されている。
*2 称念寺:豪壮な伽藍で、今井の繁栄ぶりが分かる。今井家は代々「兵部」を名乗り、武釈兼帯として町を治めていたが、1679(延宝7)年に僧侶に専念することになり、現在も称念寺住職として代を重ねている。現在の本堂は江戸時代前期の建立で、桁行19.9m、梁間21.4m、入母屋造、本瓦葺。国の重要文化財に指定されている。
*3 寺内町:室町から戦国時代に僧侶・門徒を守るために環濠を巡らし武装した郷町のことで、とくに浄土真宗(一向宗)の勢力が強かった畿内・北陸などにおいて形成された宗教的な城塞都市。自治権を握る所も多かった。今井町をはじめ、越前吉崎、越中井波、石山本願寺、河内の久宝寺や富田林などが寺内町として挙げることができる。そのなかでも今井町は隆盛ぶりが知られ、また、往時の雰囲気を現在によく残している。
*4 朱印状:江戸時代前期に書かれた「大和軍記」では「今井村と申所ハ兵部と申一向坊主の取立申新地にて候 此兵部器量ものにて四町四方に堀を堀廻し土手を築き内に町割りをいたし方々より人をあつめ家をつくらせ國中へ商等をいたさせ又ハ牢人をはあつめ置申候」とし、織田信長に反抗したが降伏したので、「成矢倉等をおろさせ兵部ハ其まま信長公御赦免に御立置候彌 先規に不相替今井の支配仕宗門相續仕候様にと信長公朱印を給り 其以後秀吉公御代にも右之通の御朱印給り候」と、信長は武装解除を条件に兵部にそのまま今井を支配させ、宗門を続けることも許し、秀吉も引き続き認めたと記している。
*5 厨子二階:道路に面した、天井高を低くし中2階のような部分のこと。主に物置として使用されていた。
*6 虫籠窓:正面や裏面の「厨子(つし)」の部分の壁に、採光と通風のための開口部。それぞれの町家で様々な意匠が施されている。
関連リンク | 橿原市(WEBサイト) |
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参考文献 |
橿原市(WEBサイト) 一般社団法人橿原市観光協会(WEBサイト) 「史籍集覧 第13冊 大和軍記」近藤出版部 1902~1926年 325/477 国立国会図書館デジタルコレクション 公益財団法人十市県主今西家保存会(WEBサイト) 「奈良町家 様式と知恵」 |
2024年12月現在
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