聖林寺
JR桜井線(万葉まほろば線)・近鉄大阪線桜井駅から南へ約2.5kmの多武峰を背にした高台にある。創建は定かではないが、寺伝では、藤原鎌足の長子定慧*1が開山したといわれる多武峯妙楽寺*2の別院として和銅年間(708~715年)に開創されたと伝えられている。もとは「遍照院」と称したが、享保年間(1716~1736年)に妙楽寺の僧子暁によって「聖林寺」と改称。幾度か火災に遭ったため伽藍は焼失し、江戸時代中期には大神神社の神宮寺である平等寺の僧玄心が再興したため、本院の妙楽寺は天台宗であるものの、聖林寺は真言宗の律院となった。本尊は丈六子安延命地蔵であるが、明治初期の神仏分離の際、大神神社の神宮寺であった大御輪寺(だいごりんじ)から遷された木心乾漆十一面観音立像*3を安置する寺として名高い。この観音像については岡倉天心とフェノロサ*4により高く評価され国宝に指定されたという逸話がある。
みどころ
聖林寺の見どころはやはり「木心乾漆十一面観音立像」だろう。和辻哲郎も「古寺巡礼」のなかで、まず「聖林寺の十一面観音は偉大な作」としたうえで、「極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる」と感想を述べている。顔については「きれの長い、半ば 閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、ーーすべてわれわれが見慣れた形相の理想化」がなされたものと表現し、「この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを与え ない」と身体の造形を描写している。最後に「肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。またその釣り合いの微妙な美しさ。これこそ真に写実の何であるかを知っている 巨腕の製作」であって、このような仏像には写実的透徹が必須であり、それを実現していると締めくくっている。このように言葉を尽くして絶賛している。
補足情報
*1 定慧:じょうえ。定恵、貞慧とも。藤原鎌足の長男。法相宗の僧。生没年については、643~666年とされるが、645~714年など複数の説がある。666年没年説の場合、遣唐使として中国に渡り帰国後に多武峰妙楽寺開山及び遍照院(聖林寺)開基に関係することはできない。
*2 多武峯妙楽寺:明治初期の神仏分離によって、現在は談山神社となっている。
*3 木心乾漆十一面観音立像:高さ210cm、右手を垂れ、左手に水瓶をもって直立し、その姿はけだかく威厳がある。乾漆造のため衣文の表現も流麗で美しく、天平時代の代表作に恥じない。断片だが光背も優れている。1959(昭和34)年に建立され、2022年(令和4)の改修工事で一新された収蔵庫「観音堂」に安置されている。拝観有料。
*4 岡倉天心とフェノロサ:美術行政家であり美術指導者の岡倉天心と東洋美術史家で米国人のフェノロサが1886(明治19)年に政府の古社寺調査団として奈良を訪問した際、聖林寺にも立ち寄り、十一面観音立像を発見し、「朝鮮風ナリ 法隆寺曇徴ノ風ニ擬シテ作レリ、百済人ナルベシ 薬師寺観音ノ如ク百済人の感覚ナリ 光背台坐非凡ニテ日本第一保存ノ像か 新発明ナリ」と絶賛している。
*2 多武峯妙楽寺:明治初期の神仏分離によって、現在は談山神社となっている。
*3 木心乾漆十一面観音立像:高さ210cm、右手を垂れ、左手に水瓶をもって直立し、その姿はけだかく威厳がある。乾漆造のため衣文の表現も流麗で美しく、天平時代の代表作に恥じない。断片だが光背も優れている。1959(昭和34)年に建立され、2022年(令和4)の改修工事で一新された収蔵庫「観音堂」に安置されている。拝観有料。
*4 岡倉天心とフェノロサ:美術行政家であり美術指導者の岡倉天心と東洋美術史家で米国人のフェノロサが1886(明治19)年に政府の古社寺調査団として奈良を訪問した際、聖林寺にも立ち寄り、十一面観音立像を発見し、「朝鮮風ナリ 法隆寺曇徴ノ風ニ擬シテ作レリ、百済人ナルベシ 薬師寺観音ノ如ク百済人の感覚ナリ 光背台坐非凡ニテ日本第一保存ノ像か 新発明ナリ」と絶賛している。
関連リンク | 聖林寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
聖林寺(WEBサイト) 「岡倉天心全集・第8巻 奈良古社寺調査手録」平凡社 1981年 「朝日日本歴史人物事典」朝日新聞出版 「奈良県の歴史散歩(上)奈良県北部」山川出版社 和辻哲郎「古寺巡礼」Kindle版 |
2024年12月現在
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