談山神社たんざんじんじゃ

JR桜井線(万葉まほろば線)・近鉄大阪線桜井駅から南へ約8km。桜井市の南、峰々を重ねた多武峰*1の山中に十三重塔*2を中心に本殿*3や拝殿、権殿*4、総社本殿など大小さまざまの社殿が配置されている。一ノ鳥居から社殿下の摩尼輪塔*5まで1丁ごとに丁石が立ち、建物の多くが桧皮葺の屋根、朱に彩られ、春は約500本のサクラ、秋は約3,000本もの紅葉(カエデ)に包まれる。十三重塔の背後の山は御破裂山*6と呼ばれている。
 同神社の創建については諸説*7あるが、「多武峰略記」や「多武峰縁起」などによれば、678(天武天皇7)年に、唐から帰朝した定慧*8が父藤原鎌足の墓を摂津国(大阪府)阿威山から移して十三重塔を建立、堂宇を整えて妙楽寺を起こしたと伝える。701(大宝元)年には鎌足の像を安置する聖霊殿が建立され、これが現在の談山神社本殿の前身となった。
 平安時代には藤原氏の威光のもと隆盛を極め、多数の僧兵も抱えた。しかし、その後、延暦寺の末寺となったため、興福寺との抗争に巻き込まれ、たびたび興福寺僧兵の攻撃に遭い、内紛もあって伽藍堂宇の焼失と再建が繰り返されたが、朝野に渡る崇敬を集めた。江戸時代には往時の隆盛に比べ衰微はしたものの、幕府からは朱印領3,000石が与えられていた。明治期の神仏分離令によって、妙楽寺の号が廃され、境内の仏堂等は神社の社殿風に改称あるいは破却されたが、現在も中世から近世に再建された本殿や十三重塔など、神仏習合時代の面影を残す独特な社殿が建ち並ぶ。
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みどころ

本居宣長は菅笠日記で1772(明和9)年に多武峰を訪れた折のことを「うるはしき橋あるを渡り、すこし行きて惣門にいる。左右に僧坊どもこゝらなみたてり。御廟の御前はやゝうちはれて、山のはらに南むきにたち給へる、いといかめしく、きらきらしくつくりみがかれたる有様、めもかゞやくばかりなり。十三重の塔、又惣社など申すも、西の方に立給へり。すべて此所、みあらか(御殿)のあたりはさらにもいはず、僧坊のかたはら、道のくまぐままで、さる山中に、おち葉のひとつだになく、いといときらゝかに、はききよめたる事、又たぐひあらじと見ゆ。櫻は今をさかりにて、こゝもかしこも白たへに咲みちたる花の梢、ところからはましておもしろき事、いはんかたなし。さるはみなうつしうゑたる木どもにやあらん、一やうならず、くさぐさ見ゆ。そも此山に、かばかり花のおほかる事、かねてはきかざりきかし」と、すでに往時に比べれば、寺勢は衰えていたが、それでも大化の改新で知られる藤原鎌足を祀る名社として、植栽した様々な木々に抱かれ、華麗な社殿が建ち並ぶ境内は美しく掃き清められていることなどを記録している。訪れた時がちょうどサクラの開花期で、その見事さも称賛している。
 今は、明治の神仏分離により、江戸期ほどの壮観さはないが、十三重塔や本殿などは、神仏習合時代の面影を遺す独特な立ち姿や、朱を基調とした色合いの華麗さはそのままである。また、これらの社殿を春のサクラはもちろん、秋の紅葉が山全体で包むような景観美は絶佳である。
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補足情報

*1 多武峰:奈良県桜井市南部、寺川上流一帯の名称。狭義には御破裂(ごはれつ)山(破裂山とも。標高619m)という倉橋山につながる山の名だが、その南麓一帯も含めた地名ともなっている。この地名から妙楽寺を多武峯寺あるいは、単に多武峰とも呼んでいた。また、多武峰の地名の由来は諸説あるが、「日本書紀」の斉明天皇2年(656)是歳条に「田身嶺(たむのみね)」に両槻宮を設けたとの記事があり、正史に現れる最初とされている。なお。「談山」の由来についても諸説があるが、「多武峰縁起」では、「多武峰」に関連付け、祭神となる藤原鎌足が中大兄皇子と蘇我入鹿を滅ぼすために「談撥亂反正之謀」(世の乱れを治め、正しい世の中に戻すことを謀り談ずる)をこの地で行ったことから「仍其談處號曰談岑。後用多武二字耳」(この地を「談岑」と号したとし、後に「多武」の2字を用いた)としている。
*2 十三重塔:1532(享禄5)年の再建。高さ約17m、桧皮葺の緩やかな勾配の屋根を重ねて石塔婆の形式をまねている。木造の十三重塔では現存唯一の例。
*3 本殿:現在の本殿は1850(嘉永3)年の造替。外観は3間社春日造(隅木入り)。朱塗極彩色の豪華絢爛たる様式。鎌足神像を祀る。軒に百数基の銅製釣燈篭を下げた拝殿は宝物館を兼ねており、多武峰縁起や僧兵たちの薙刀、太刀などを展示。
*4 権殿:ごんでん。十三重塔の西隣の建物。室町後期の再建。5間四方、入母屋造、桧皮葺。もと常行三昧堂のためその形式を残し、蟇股、手挾などに室町時代の特色がみられる。殿内では、室町時代より延年舞やお能が演じられ、とくに能楽を大成した観阿弥・世阿弥の本拠地だったが、明治の神仏分離以降には能楽上演は行われなくなっていた。平成に入り、再び権殿での上演も行われるようになった。
*5 摩尼輪塔:丁石は菩薩が52の修行を経て如来になったことを示すため52基が立つ。摩尼輪塔は、聖域の入口に立ち下乗石の役割を果たす。八角大石柱笠塔婆の塔身に「妙覚究竟摩尼輪」と彫られ、上円部に梵字を入れた類例のない形をしている。乾元2年(1303)の銘が刻まれている。
*6 御破裂山:天下に事変が起こる予告としてこの山が鳴動し、鎌足の神像が破裂した。この知らせを受けた朝廷は急いで勅使を送り幣帛を奉って災禍を免れたことが史上37回あったという。
*7 諸説:「日本書紀」「藤氏家伝」「扶桑略記」「多武峰略記」「多武峰縁起」など、創建に関わる正史、家伝、縁起で、談山神社の創建や藤原鎌足の当初の埋葬墓、定慧の経歴などについて書き記されているものが多数あるが、年代などに不整合な部分もあり、創建の経緯については不詳な点も多い。ただ、十三重塔や本殿が鎌足を祀る施設として造営されたもので、7世紀から8世紀には寺院として成立していたことは間違いない。
*8 定慧:じょうえ。定恵、貞慧とも。藤原鎌足の長男。法相宗の僧。生没年については、643~666年とされるが、645~714年など複数の説がある。666年没年説の場合、遣唐使として中国に渡り帰国後に多武峰妙楽寺開山及び遍照院(聖林寺)開基に関係することはできない。

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