長谷寺
近鉄大阪線長谷寺駅から長谷寺の門前まで北東へ約1.2km。初瀬山*1の山麓から中腹に大伽藍を構えている。真言宗豊山派の総本山で、西国三十三所観音霊場の第8番札所。ボタンや紅葉*2などの名所としても知られ「花の御寺」の異名をもつ。
境内には本堂*3を中心に五重塔、大講堂*4などの堂塔が建つ。初瀬山の中腹に位置する本堂へは、山麓の仁王門から399段の登廊*5を上って行く。本堂は前面に懸造(かけづくり)の舞台をもつ大建築で、堂内に高さ10mを超える本尊の木造十一面観音立像*6を安置する。本堂は国宝、本尊は国の重要文化財に指定されており、ほかにも多くの国宝や重文を所蔵。これらの寺宝は、登廊の脇にある宗宝蔵でも見ることができる(宗宝蔵は3~5月と10~12月に開扉。展示内容は時期によって異なる)。
長谷寺の創建については諸説あるが、寺伝によれば、686(朱鳥元)年に川原寺の僧道明*7(どうみょう)が山上の西の岡(現在の五重塔付近)に銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を安置したのが始まり。さらに727(神亀4)年、徳道*8が東の岡(現在の本堂付近)に本尊の十一面観音立像と観音堂を造立したと伝わる。平安時代には長谷観音の霊験が広く知られるようになり、都の貴族の間で「初瀬詣」が流行、「枕草子」や「源氏物語」などの王朝文学*9にもしばしば描かれた。
長谷寺は創建以来、たびたび火災に遭ったが幅広い信仰に支えられ、そのつど復興されてきた。明治にも三重塔、仁王門、大講堂を焼失するが、順次再興。三重塔跡の横に1954(昭和29)年に建てられた五重塔は、戦後の日本で初めて建てられた五重塔であり、「昭和の名塔」と呼ばれている。
境内には本堂*3を中心に五重塔、大講堂*4などの堂塔が建つ。初瀬山の中腹に位置する本堂へは、山麓の仁王門から399段の登廊*5を上って行く。本堂は前面に懸造(かけづくり)の舞台をもつ大建築で、堂内に高さ10mを超える本尊の木造十一面観音立像*6を安置する。本堂は国宝、本尊は国の重要文化財に指定されており、ほかにも多くの国宝や重文を所蔵。これらの寺宝は、登廊の脇にある宗宝蔵でも見ることができる(宗宝蔵は3~5月と10~12月に開扉。展示内容は時期によって異なる)。
長谷寺の創建については諸説あるが、寺伝によれば、686(朱鳥元)年に川原寺の僧道明*7(どうみょう)が山上の西の岡(現在の五重塔付近)に銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を安置したのが始まり。さらに727(神亀4)年、徳道*8が東の岡(現在の本堂付近)に本尊の十一面観音立像と観音堂を造立したと伝わる。平安時代には長谷観音の霊験が広く知られるようになり、都の貴族の間で「初瀬詣」が流行、「枕草子」や「源氏物語」などの王朝文学*9にもしばしば描かれた。
長谷寺は創建以来、たびたび火災に遭ったが幅広い信仰に支えられ、そのつど復興されてきた。明治にも三重塔、仁王門、大講堂を焼失するが、順次再興。三重塔跡の横に1954(昭和29)年に建てられた五重塔は、戦後の日本で初めて建てられた五重塔であり、「昭和の名塔」と呼ばれている。
みどころ
ここでのみどころは、まず、長い長い登廊。風雅な楕円形の長谷型といわれる灯籠が一定間隔で吊され、側柱と石段との美しい調和を見せる。登廊の両脇にはボタンが植えられており、4月下旬~5月上旬には赤やピンクなどの艶やかな大輪の花を楽しみながら上って行ける。登廊を上り切ると、大建築の本堂が堂々と建つ。堂内には10mを超える本尊の十一面観音立像が祀られており、これまた、その巨大さに驚かされる。
俳人高浜虚子が1943(昭和18)年にこの地を吟行し、「長谷寺に法鼓轟く彼岸かな」「御胸に春の塵とや申すべき」とともに「花の寺未寺一念三千寺」と吟じているが、実際に訪れてみると、まさにこの句のとおり心に響くものがある。
俳人高浜虚子が1943(昭和18)年にこの地を吟行し、「長谷寺に法鼓轟く彼岸かな」「御胸に春の塵とや申すべき」とともに「花の寺未寺一念三千寺」と吟じているが、実際に訪れてみると、まさにこの句のとおり心に響くものがある。
補足情報
*1 初瀬山:江戸中期の地誌「大和名所図会」には、「嶺めぐり谷幽にして山口翳蹊(暗い小径)す。故に隠口(国・こもりく)の初瀬と呼ぶ」と記され、「隠国の」は山に囲まれる意で「初瀬」に懸る枕詞とされ、「初瀬山」、「初瀬」、「初瀬川」はともに万葉集の時代から多くの歌に詠まれていた。このため、長谷寺の寺号も「初瀬寺」「泊瀬寺」などとも表記されてきた。万葉集には柿本人麻呂の「隠口(こもりく)の泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ」(初瀬の山の山際に漂っている雲は、煙と化してしまった、土形娘子(ひぢかたのをとめ)でもあろうか・佐々木信綱訳)とあり、新古今和歌集では藤原定家が「年もへぬ祈る契は泊瀬山尾上のかねのよそのゆうぐれ」 (何年も相手と結ばれることを長谷寺の観音に祈っていたが、空しく契りも切れ、長谷寺の鐘は他の人のために鳴っているのだ)などがある。
*2 ボタンや紅葉:境内のボタンは約150種、約7,000株あり、登廊の両脇などに咲き誇る。ボタンのほか、春は桜やシャクナゲ、初夏はアジサイ、秋は紅葉などが境内を彩る。
*3 本堂:国宝。1650(慶安3)年、徳川3代将軍家光の寄進により再建されたもの。正堂は桁行(間口)の柱間9間、梁間(奥行)同5間、入母屋造、本瓦葺で、礼堂は正堂よりやや低く、桁行9間、梁間4間、入母屋造、妻入で本瓦葺。背面で正堂に接続している。
*4 大講堂:仁王門の南、拝観順路では最後となる山麓部に建つ。書院などとともに本坊を構成。大正時代の再建ながら国の重要文化財に指定されている。
*5 登廊:平安時代の1039(長暦3)年に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったのが始まりという。108間、399段。上中下の三廊に分かれ、下、中廊は1889(明治22)年再建。上廊は本堂と同じく1650(慶安3)年に再建されたものが遺っている。
*6 十一面観音立像:本尊は創建以来7回焼失しており、現在の像は1538(天文7)年の復興像。高さは約10m。木造の仏像としては日本最大級という。右手に錫杖、左手に華瓶を持つ珍しい姿で、「長谷寺式観音」といわれる。
*7 道明:生没年不詳。8世紀の伝説的な僧侶ではあるが、道明の実存については、確実な史料としては銅板法華説相図の銘文にその名が記載されていることで確認されている。なお、銘文の年次については、686(朱鳥元)年という説と698(文武天皇2)年とする説がある。
*8 徳道:生没年不詳。8世紀の僧侶。長谷寺の開山で西国三十三所観音巡礼の祖とされる。弘福寺(川原寺)の道明あるいは東大寺良弁の弟子とも伝えられている。「扶桑略記」などに近江国(滋賀県)高嶋郡白蓮華谷にあった霊木をもって仏師稽主勲、稽文会に2丈6尺の十一面観音を造らせ、長谷寺の本尊としたという記事が見られる。
*9 王朝文学:「枕草子」「源氏物語」「更級日記」「蜻蛉日記」など数多くの文学作品に登場している。「更級日記」では作者の菅原孝標女は2度にわたり参詣し、2度とも3日の参籠を行っている。1045(寛徳2)年では「初瀬川などうちすぎて、その夜御寺にまう(詣)で着きぬ。はら(祓)へなどして上る。三日さぶらひ(参籠)て、暁まか(罷)でむとてうちねぶりたる夜さり、御堂の方より、『すは、稲荷より賜はるしるしの杉よ』とてものを投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば夢なりけり」と、参籠中の夢見を記し、1049(永承4)年には「また初瀬に詣づれば、はじめにこよなく物頼もし。處々にまうけなどして行きもやらず。山城の国、はゝそ(柞・祝園神社)の森などに、紅葉いとをかしきほどなり。初瀬川渡るに、『初瀬川たちかへりつつたづぬれば杉のしるしもこのたびや見む』と思ふもいとたのもし」と前回の夢見を思い返し、霊験が現れることを期待している。
*2 ボタンや紅葉:境内のボタンは約150種、約7,000株あり、登廊の両脇などに咲き誇る。ボタンのほか、春は桜やシャクナゲ、初夏はアジサイ、秋は紅葉などが境内を彩る。
*3 本堂:国宝。1650(慶安3)年、徳川3代将軍家光の寄進により再建されたもの。正堂は桁行(間口)の柱間9間、梁間(奥行)同5間、入母屋造、本瓦葺で、礼堂は正堂よりやや低く、桁行9間、梁間4間、入母屋造、妻入で本瓦葺。背面で正堂に接続している。
*4 大講堂:仁王門の南、拝観順路では最後となる山麓部に建つ。書院などとともに本坊を構成。大正時代の再建ながら国の重要文化財に指定されている。
*5 登廊:平安時代の1039(長暦3)年に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったのが始まりという。108間、399段。上中下の三廊に分かれ、下、中廊は1889(明治22)年再建。上廊は本堂と同じく1650(慶安3)年に再建されたものが遺っている。
*6 十一面観音立像:本尊は創建以来7回焼失しており、現在の像は1538(天文7)年の復興像。高さは約10m。木造の仏像としては日本最大級という。右手に錫杖、左手に華瓶を持つ珍しい姿で、「長谷寺式観音」といわれる。
*7 道明:生没年不詳。8世紀の伝説的な僧侶ではあるが、道明の実存については、確実な史料としては銅板法華説相図の銘文にその名が記載されていることで確認されている。なお、銘文の年次については、686(朱鳥元)年という説と698(文武天皇2)年とする説がある。
*8 徳道:生没年不詳。8世紀の僧侶。長谷寺の開山で西国三十三所観音巡礼の祖とされる。弘福寺(川原寺)の道明あるいは東大寺良弁の弟子とも伝えられている。「扶桑略記」などに近江国(滋賀県)高嶋郡白蓮華谷にあった霊木をもって仏師稽主勲、稽文会に2丈6尺の十一面観音を造らせ、長谷寺の本尊としたという記事が見られる。
*9 王朝文学:「枕草子」「源氏物語」「更級日記」「蜻蛉日記」など数多くの文学作品に登場している。「更級日記」では作者の菅原孝標女は2度にわたり参詣し、2度とも3日の参籠を行っている。1045(寛徳2)年では「初瀬川などうちすぎて、その夜御寺にまう(詣)で着きぬ。はら(祓)へなどして上る。三日さぶらひ(参籠)て、暁まか(罷)でむとてうちねぶりたる夜さり、御堂の方より、『すは、稲荷より賜はるしるしの杉よ』とてものを投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば夢なりけり」と、参籠中の夢見を記し、1049(永承4)年には「また初瀬に詣づれば、はじめにこよなく物頼もし。處々にまうけなどして行きもやらず。山城の国、はゝそ(柞・祝園神社)の森などに、紅葉いとをかしきほどなり。初瀬川渡るに、『初瀬川たちかへりつつたづぬれば杉のしるしもこのたびや見む』と思ふもいとたのもし」と前回の夢見を思い返し、霊験が現れることを期待している。
関連リンク | 長谷寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
長谷寺(WEBサイト) 「国史大系 第6巻 日本逸史 扶桑略記」経済雑誌社 1897-1901 284/438 国立国会図書館デジタルコレクション 玉井幸助「更級日記新註」育英書院大正15年 109・112/141 国立国会図書館デジタルコレクション 文化庁 国指定文化財等データベース 本堂(WEBサイト) 高浜虚子「六百句」青空文庫 kindle版 |
2024年12月現在
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