石上神宮
JR桜井線(万葉まほろば線)・近鉄天理線天理駅から東へ約2km、布留山(ふるやま・標高266m)の北西麓の高台にある。境内は、深い社叢に包まれ、山の辺の道の散策の北の起点にもなっている。「古事記」*1によると、神武天皇は東征の折、熊野で危機に陥ったが、高倉下(たかくらじ。人の名)が建御雷神(武甕雷神。たけみかづちのかみ)に下された神剣を献上、それにより窮地を脱したとされる。当神宮は、その神剣に宿る「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」を祭神とする。神剣はその後、宮中に奉安されていたが崇神天皇の時代に当地に遷し祀られたとされ、これが石上神宮の起源といわれる。古代においては、武を司る豪族・物部氏の氏神でもあったことから、境内には朝廷の武器庫があったと考えられている。当神宮はもともと本殿がなく、拝殿裏の禁足地*2にご神体の神剣が埋納されていると伝承されてきた。1874(明治7)年、その禁足地を発掘したところ、実際に鉄剣や玉類などが出土。これこそご神体であるとして、これを奉安する本殿が造営されることになり、1913(大正2)年に完成した。
現在の社殿のうち、拝殿*3は国宝、楼門*4は国重要文化財。また、摂社の出雲建雄神社拝殿*5は国宝に指定されている。神宝類も多く、境内の神庫(ほくら)に伝世されてきた七支刀*6は国宝、鉄盾は国重要文化財となっている。
参道わきにある鏡池には、別名を馬魚(ばぎょ)というワタカ*7が生息している。
現在の社殿のうち、拝殿*3は国宝、楼門*4は国重要文化財。また、摂社の出雲建雄神社拝殿*5は国宝に指定されている。神宝類も多く、境内の神庫(ほくら)に伝世されてきた七支刀*6は国宝、鉄盾は国重要文化財となっている。
参道わきにある鏡池には、別名を馬魚(ばぎょ)というワタカ*7が生息している。
みどころ
藤原定家が「拾遺愚集」で「五月雨のふるの神杉過ぎがてに木高くなのるほととぎすかな」と詠み、1903(明治36)年の「大和名勝」では「老杉鬱蒼として、神威赫々、自ら襟を正さしむ」と描写しているとおり、布留山を背に、こんもりとした社叢が神宮全体を覆っており、神秘的で霊域の雰囲気に包まれる。この社叢は山の辺の道の起点のひとつとしてまさに相応しい。
社殿のみどころは、楼門と拝殿、それに出雲建雄神社拝殿だ。楼門は1318(文保2)年の建立。参道奥の左手に立ち、左右に本社を囲む回廊が取り付く。かつては鐘楼門として上層に鐘を吊るしていたが、明治の神仏分離で取り外された。楼門をくぐって正面に立つ拝殿は、荘重かつ優美な建築。鎌倉時代初期に建立されたものとみられ、現存する日本最古の拝殿として知られる。楼門の南、一段高いところに立つ出雲健雄神社拝殿は、石上神宮の南にあった内山永久寺(明治に廃絶)の鎮守・住吉神社の拝殿を大正時代に移築したもの。
社殿のみどころは、楼門と拝殿、それに出雲建雄神社拝殿だ。楼門は1318(文保2)年の建立。参道奥の左手に立ち、左右に本社を囲む回廊が取り付く。かつては鐘楼門として上層に鐘を吊るしていたが、明治の神仏分離で取り外された。楼門をくぐって正面に立つ拝殿は、荘重かつ優美な建築。鎌倉時代初期に建立されたものとみられ、現存する日本最古の拝殿として知られる。楼門の南、一段高いところに立つ出雲健雄神社拝殿は、石上神宮の南にあった内山永久寺(明治に廃絶)の鎮守・住吉神社の拝殿を大正時代に移築したもの。
補足情報
*1 古事記:「古事記」では、神武天皇の危機を救った神剣について、「この大刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)、またの名は甕布都神(みかふつのかみ)、またの名は布都御魂(ふつのみたま)といい、今は石上神宮に坐す」と記されている。
*2 禁足地:記録は定かではないが、古くから拝殿裏に禁足地があり、ご神体が鎮まるところと考えられてきた。現在は「布留社」と刻字した瑞垣に取り囲まれた、東西約45m、南北約30mの範囲を「禁足地」としており、当神宮の神域の中でもっとも神聖な場所とされている。
*3 拝殿:国宝。正面7間、側面4間、入母屋造、向拝(ごはい)1間、桧皮葺。白河天皇が1081(永保元)年に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたと伝えられるが、鎌倉時代初期の建築様式を示している。仏堂風の外観をもち、拝殿としては、京都の宇治上(うじかみ)神社拝殿とともにもっとも古いものの一つである。
*4 楼門:国指定重要文化財。1318(文保2)年に建立されたと伝わる。1間1戸楼門、入母屋造、檜皮葺。
*5 出雲建雄(いずもたけお)神社拝殿:国宝。正面5間、側面1間、切妻造、桧皮葺で、1137(保延3)年の建立と伝えられる。石上神宮の神宮寺であった旧内山永久寺から1914(大正3)年に移築された。建物の中央1間分を土間の通路とした「割拝殿」という形式の拝殿。平安末期ごろからみられる割拝殿の最古の例の一つとされ、大寺であった内山永久寺の歴史を伝える建造物としても貴重。
*6 七支刀:ななつさやのたち。国宝。全長74.8cmの鉄剣。剣身の左右に各3本の枝刃を段違いに作り出した特異な形をしている。剣身の表と裏には合わせて60余字の銘文が金象嵌で表されており、明治時代以来、読み方、解釈についてさまざまな研究がなされてきた。西暦369年に百済で作られ、倭王に献上または下賜されたものと考えられ、当時の東アジア情勢を考える上で極めて貴重な資料とされる。
*7 ワタカ:硬骨魚綱 コイ目 コイ科。日本原産で本来は琵琶湖淀川水系に分布する。成魚は全長30cmほど。体色は銀白色で、背部は緑青色。頭は小さく目は大きい。
*2 禁足地:記録は定かではないが、古くから拝殿裏に禁足地があり、ご神体が鎮まるところと考えられてきた。現在は「布留社」と刻字した瑞垣に取り囲まれた、東西約45m、南北約30mの範囲を「禁足地」としており、当神宮の神域の中でもっとも神聖な場所とされている。
*3 拝殿:国宝。正面7間、側面4間、入母屋造、向拝(ごはい)1間、桧皮葺。白河天皇が1081(永保元)年に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたと伝えられるが、鎌倉時代初期の建築様式を示している。仏堂風の外観をもち、拝殿としては、京都の宇治上(うじかみ)神社拝殿とともにもっとも古いものの一つである。
*4 楼門:国指定重要文化財。1318(文保2)年に建立されたと伝わる。1間1戸楼門、入母屋造、檜皮葺。
*5 出雲建雄(いずもたけお)神社拝殿:国宝。正面5間、側面1間、切妻造、桧皮葺で、1137(保延3)年の建立と伝えられる。石上神宮の神宮寺であった旧内山永久寺から1914(大正3)年に移築された。建物の中央1間分を土間の通路とした「割拝殿」という形式の拝殿。平安末期ごろからみられる割拝殿の最古の例の一つとされ、大寺であった内山永久寺の歴史を伝える建造物としても貴重。
*6 七支刀:ななつさやのたち。国宝。全長74.8cmの鉄剣。剣身の左右に各3本の枝刃を段違いに作り出した特異な形をしている。剣身の表と裏には合わせて60余字の銘文が金象嵌で表されており、明治時代以来、読み方、解釈についてさまざまな研究がなされてきた。西暦369年に百済で作られ、倭王に献上または下賜されたものと考えられ、当時の東アジア情勢を考える上で極めて貴重な資料とされる。
*7 ワタカ:硬骨魚綱 コイ目 コイ科。日本原産で本来は琵琶湖淀川水系に分布する。成魚は全長30cmほど。体色は銀白色で、背部は緑青色。頭は小さく目は大きい。
関連リンク | 石上神宮(WEBサイト) |
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参考文献 |
石上神宮(WEBサイト) 「大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会」179/375 国立国会図書館デジタルコレクション 中村啓信「新版古事記 現代語訳付き」角川ソフィア文庫 国立研究開発法人国立環境研究所(WEBサイト) 大阪文化財ナビ(WEBサイト) |
2024年12月現在
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