「ならまち」の街並み
「ならまち」は、奈良市の旧市街地の一部であり、近鉄奈良駅の南、元興寺*1の旧境内やその周辺一帯をいう。古い街並みが残り、町家を改装したおしゃれな飲食店やショップが多く、人気の観光エリアとなっている。
この「ならまち」を含む奈良の旧市街は、平城京の「外京」とよばれる東の張り出し部に形成されたのが始まり。784(延暦3)年の長岡京への遷都で平城京内は荒廃したものの、外京には興福寺や元興寺、東大寺があり、これらの寺社の門前郷として繁栄をつづけた。治承の兵火*2で東大寺・興福寺は焼き討ちにあったが、源頼朝などの武家や公家の援助で復興し、門前郷はいっそう発展した。しかし、1451(宝徳3)年に起きた土一揆によって社寺の権力が弱まり、室町時代後期には社寺の支配から脱して町民の自治的組織「惣」が結成され、商工業中心の「自由経済都市」の性格を強めた。
江戸時代に入ると、奈良奉行の支配下になったものの、戦国時代に焼失した東大寺大仏殿の復興とともに「奈良参り」が流行し、観光都市化も進んだ。1887(明治20)年に奈良県が置かれ、県庁が市街地に設けられると、奈良県の政治・経済の中心地となり、観光と合わせ、繁華街の発展に寄与した。しかしながら、鉄道の開通、さらには戦後の自動車を中心とした交通網の発展とともに大阪圏の郊外都市の性格も有するようになり、徐々に市街化が進み古くからの街並みが失われ、とくに近鉄奈良駅周辺の繁華街では近現代化が進んだ。
そのようななか「ならまち」においては、現在も江戸時代から昭和初期にかけての伝統的建築物が比較的よく残っている。とくに、下御門町・脇戸町*3などを通る南北の道沿いや、今御門町・中新屋町・芝新屋町・元興寺町*4などを通る南北の道(旧上ツ道)沿い、西新屋町*5などで見られる。この家並み、街並みの景観を保存すべく、1970年代からまちづくり活動が活発になり、古い町家を残すために改修・整備し活用する動きもみられるようになった。この流れを受けて、行政でも町家の修理などに対する補助制度の創設や、景観の維持・向上を図るための条例の整備などを実施した。
「ならまち」には、かつての平城京の「外京」の町割りが残っているために、道が狭く、細長いウナギの寝床のような地割に江戸期以降の町家が建て込む伝統的な景観が見られる。こうした街並みのなかに元興寺、元興寺塔跡・小塔院跡*6などの寺社史跡をはじめ、庚申堂、地蔵堂などが点在している。また、「ならまち格子の家」、「奈良市史料保存館」、「奈良町南観光案内所『鹿の舟』」、「なら工藝館」*7などの公設の文化観光施設も街並みに調和した建築物で開設されているとともに、町家を活用したショップやカフェ、レストランなどが集まっている。
この「ならまち」を含む奈良の旧市街は、平城京の「外京」とよばれる東の張り出し部に形成されたのが始まり。784(延暦3)年の長岡京への遷都で平城京内は荒廃したものの、外京には興福寺や元興寺、東大寺があり、これらの寺社の門前郷として繁栄をつづけた。治承の兵火*2で東大寺・興福寺は焼き討ちにあったが、源頼朝などの武家や公家の援助で復興し、門前郷はいっそう発展した。しかし、1451(宝徳3)年に起きた土一揆によって社寺の権力が弱まり、室町時代後期には社寺の支配から脱して町民の自治的組織「惣」が結成され、商工業中心の「自由経済都市」の性格を強めた。
江戸時代に入ると、奈良奉行の支配下になったものの、戦国時代に焼失した東大寺大仏殿の復興とともに「奈良参り」が流行し、観光都市化も進んだ。1887(明治20)年に奈良県が置かれ、県庁が市街地に設けられると、奈良県の政治・経済の中心地となり、観光と合わせ、繁華街の発展に寄与した。しかしながら、鉄道の開通、さらには戦後の自動車を中心とした交通網の発展とともに大阪圏の郊外都市の性格も有するようになり、徐々に市街化が進み古くからの街並みが失われ、とくに近鉄奈良駅周辺の繁華街では近現代化が進んだ。
そのようななか「ならまち」においては、現在も江戸時代から昭和初期にかけての伝統的建築物が比較的よく残っている。とくに、下御門町・脇戸町*3などを通る南北の道沿いや、今御門町・中新屋町・芝新屋町・元興寺町*4などを通る南北の道(旧上ツ道)沿い、西新屋町*5などで見られる。この家並み、街並みの景観を保存すべく、1970年代からまちづくり活動が活発になり、古い町家を残すために改修・整備し活用する動きもみられるようになった。この流れを受けて、行政でも町家の修理などに対する補助制度の創設や、景観の維持・向上を図るための条例の整備などを実施した。
「ならまち」には、かつての平城京の「外京」の町割りが残っているために、道が狭く、細長いウナギの寝床のような地割に江戸期以降の町家が建て込む伝統的な景観が見られる。こうした街並みのなかに元興寺、元興寺塔跡・小塔院跡*6などの寺社史跡をはじめ、庚申堂、地蔵堂などが点在している。また、「ならまち格子の家」、「奈良市史料保存館」、「奈良町南観光案内所『鹿の舟』」、「なら工藝館」*7などの公設の文化観光施設も街並みに調和した建築物で開設されているとともに、町家を活用したショップやカフェ、レストランなどが集まっている。
みどころ
近鉄奈良駅から東向南町のアーケード街を抜けると、餅飯殿町(もちいどのちょう)のアーケード街が続く。その餅飯殿の左右とさらにその先が、「ならまち」と呼ばれる地区。細い路地が入り組んでいるので、歩き出す前に観光案内所で町歩きMAPを入手しておくことが必須。元興寺などの寺社巡りもよいが、町家を利用したおしゃれなショップやカフェ、レストランがあちこちにあるので、それらの中から自分好みの店や出会いを楽しみたいもの。
補足情報
*1 元興寺:蘇我馬子が飛鳥に建立した日本初の本格的寺院である法興寺(飛鳥寺)を前身とする。平城遷都によって現在地に移転し、新しい伽藍を建立、大いに栄えた。都が京都へ遷り、平安時代も後期になると寺勢は衰え、東大寺や興福寺の傘下に組み込まれ、伽藍の解体、堂塔の分散なども起こった。江戸中期の「大和名所図会」では、元興寺の境内には本堂と五重塔のみが描き込まれているものの、周辺には民家がすでに迫っている様子が描写されている。幕末の1859(安政6)年には元興寺の遺構として残されていた五重塔・観音堂も焼失した。一方、元興寺の僧房から発展した極楽坊が中世以降、庶民の浄土信仰の中心として栄え、大寺の命脈をつないだ。現在はこの元興寺(極楽坊)のほか、塔跡、小塔院跡が往時の面影を伝えている。
*2 治承の兵火:平氏による南都焼討ちのことで、1180(治承4)年、反平氏勢力が蜂起したとき、南都の興福寺、東大寺の堂衆も立ち上がったため、平重衡が東大寺・興福寺を攻め、その際の戦火で東大寺・興福寺の伽藍や奈良の町が焼失した。
*3 下御門町・脇戸町:江戸前期の「奈良坊目拙解」では、下御門町は元興寺の西門ではないかとして、高御門に対し下御門と号したとしている。1529(享禄2)年の「奈良七郷記」には記載がなく、「天正年地子帳」(1573~1592年)には載っているので、天文年間(1532~1555年)以降に在家が入るようになったのではないかとしている。脇戸町は「奈良坊目拙解」では鎧造り職人腋胴氏が住んでいたとの説も紹介しているが、すでに「奈良七郷記」には記載があるので、居民地であったことから元興寺僧坊南室の腋戸に近いためにこの名が付された、ともしている。いずれにせよ元興寺の境内跡地や周辺に民家が建つようになるのは、室町後期から江戸時代だと考えられている。
*4 元興寺町:寛政年間(1789~1801年)発行の「平城坊目考」では記載している町名だが、1529(享禄2)年の「奈良七郷記」にはこの町名はないとしているが、「奈良坊目拙解」には記述がある。
*5 西新屋町:「奈良坊目拙解」によると、「新屋は新在家新町と云うが如く 元来元興寺小塔院の廃地にして後に町家をなした故に新屋と云う」とし、「奈良七郷記」に記載がなく、「天正年地子帳」(1573~1592年)には「西新屋」の名があるので、永禄元亀年間(1558~1573年)に民家が建ったのではないかとしている。なお、この「西新屋」の項で「中新屋」、「芝新屋」の名も記載されている。
*6 元興寺塔跡・小塔院跡:元興寺塔跡は現在、華厳宗の元興寺となっている。住宅地に囲まれた門前に「史跡元興寺塔跡」の碑が立ち、境内に五重塔の基壇と礎石が遺る。また、元興寺小塔院跡は吉祥堂(西小塔院)の跡で、称徳天皇(718~770年)が百万塔を納めるために建立したといわれる。現在、小塔院跡に建立されている小堂は江戸時代のものである。
*7 「ならまち格子の家」、「奈良市史料保存館」、「奈良町南観光案内所『鹿の舟』」、「なら工藝館」:「ならまち格子の家」はならまちの伝統的な町家を再現している。「奈良市史料保存館」は奈良市に残る古文書や歴史資料の収集、調査、保管、展示などを行っている施設。「奈良町南観光案内所『鹿の舟』」は大正初期に建てられた建造物を含む施設。観光案内だけでなく、2014(平成26)年に建てられた別棟にてランチ、カフェ、買い物も楽しめる。「なら工藝館」は奈良の工芸品(奈良漆器、赤膚焼、奈良筆、奈良墨、奈良晒など)を展示販売している。いずれも入館は無料。なお、これらの施設は休館日もあるので事前に確認を。
*2 治承の兵火:平氏による南都焼討ちのことで、1180(治承4)年、反平氏勢力が蜂起したとき、南都の興福寺、東大寺の堂衆も立ち上がったため、平重衡が東大寺・興福寺を攻め、その際の戦火で東大寺・興福寺の伽藍や奈良の町が焼失した。
*3 下御門町・脇戸町:江戸前期の「奈良坊目拙解」では、下御門町は元興寺の西門ではないかとして、高御門に対し下御門と号したとしている。1529(享禄2)年の「奈良七郷記」には記載がなく、「天正年地子帳」(1573~1592年)には載っているので、天文年間(1532~1555年)以降に在家が入るようになったのではないかとしている。脇戸町は「奈良坊目拙解」では鎧造り職人腋胴氏が住んでいたとの説も紹介しているが、すでに「奈良七郷記」には記載があるので、居民地であったことから元興寺僧坊南室の腋戸に近いためにこの名が付された、ともしている。いずれにせよ元興寺の境内跡地や周辺に民家が建つようになるのは、室町後期から江戸時代だと考えられている。
*4 元興寺町:寛政年間(1789~1801年)発行の「平城坊目考」では記載している町名だが、1529(享禄2)年の「奈良七郷記」にはこの町名はないとしているが、「奈良坊目拙解」には記述がある。
*5 西新屋町:「奈良坊目拙解」によると、「新屋は新在家新町と云うが如く 元来元興寺小塔院の廃地にして後に町家をなした故に新屋と云う」とし、「奈良七郷記」に記載がなく、「天正年地子帳」(1573~1592年)には「西新屋」の名があるので、永禄元亀年間(1558~1573年)に民家が建ったのではないかとしている。なお、この「西新屋」の項で「中新屋」、「芝新屋」の名も記載されている。
*6 元興寺塔跡・小塔院跡:元興寺塔跡は現在、華厳宗の元興寺となっている。住宅地に囲まれた門前に「史跡元興寺塔跡」の碑が立ち、境内に五重塔の基壇と礎石が遺る。また、元興寺小塔院跡は吉祥堂(西小塔院)の跡で、称徳天皇(718~770年)が百万塔を納めるために建立したといわれる。現在、小塔院跡に建立されている小堂は江戸時代のものである。
*7 「ならまち格子の家」、「奈良市史料保存館」、「奈良町南観光案内所『鹿の舟』」、「なら工藝館」:「ならまち格子の家」はならまちの伝統的な町家を再現している。「奈良市史料保存館」は奈良市に残る古文書や歴史資料の収集、調査、保管、展示などを行っている施設。「奈良町南観光案内所『鹿の舟』」は大正初期に建てられた建造物を含む施設。観光案内だけでなく、2014(平成26)年に建てられた別棟にてランチ、カフェ、買い物も楽しめる。「なら工藝館」は奈良の工芸品(奈良漆器、赤膚焼、奈良筆、奈良墨、奈良晒など)を展示販売している。いずれも入館は無料。なお、これらの施設は休館日もあるので事前に確認を。
関連リンク | 奈良市観光協会(WEBサイト) |
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参考文献 |
奈良市観光協会(WEBサイト) 元興寺「元興寺と『ならまち』」(WEBサイト) 堀野正人「都市における観光とまちづくり - 奈良町の観光空間をめぐって 」奈良県立大学研究季報第21巻第2号(地域創造学研究第8号) 「奈良町家 様式と知恵」 賓清隆・安田敦郎「奈良町の景観変容と景観保存」歴史地理学 第48巻第1号(第227号)2006年1月号 |
2024年12月現在
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