元興寺
近鉄奈良線奈良駅から南へ約1km、「ならまち」の古い街並みのなかに元興寺は建つ。この寺は、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本初の本格的寺院、法興寺(飛鳥寺*1)を前身とする。平城遷都によって現在地に移転し、新しい伽藍*2を建立、大いに栄えた。しかし、都が京都へ遷り、平安時代も後期になると寺勢は衰退、東大寺や興福寺の傘下に組み込まれ、伽藍の解体、堂塔の分散なども起こった。そのなかにあって、奈良時代の学僧・智光(ちこう)*3が遺した智光曼荼羅図*4が元興寺を支えていく。智光の住んだ僧房のうち一部は極楽坊とよばれ、この曼荼羅を本尊として信仰を集めていた。寛弘2年(1244)には僧房の大改築が行われ、極楽坊は独立した寺院のようになり、庶民の浄土信仰の中心に発展。聖徳太子信仰、弘法大師信仰、地蔵信仰にも支えられて、大寺の命脈をつないだ。明治の一時期、無住になったこともあったが、1942(昭和17)年、真言律宗の宝山寺により再興され、第二次大戦後に本格的に復興した。
本堂*5の極楽堂(極楽坊本堂)は鎌倉初期の1244(寛元2)年、元興寺旧伽藍の東室南階大房(僧坊)の3房分を聖堂に改造したもので、鎌倉時代の特徴がよく表れている新和様*6の建造物。極楽曼荼羅が安置されていることから極楽堂といい、曼荼羅堂とも称されている。本堂の奥には同じく東室南階大房4房分が禅室*7として遺されている。本堂、禅室ともに国宝に指定され、世界遺産にも登録されている。また屋根の一部には飛鳥の法興寺から運ばれてきた日本最古の瓦が葺かれている。本堂の南にある法輪館*8には国宝の五重小塔*9などが安置されている。東門*10はもと東大寺西南院の門を移築したもの。
境内には、1988(昭和63)年に整備された浮図田(ふとでん 石塔、石仏群)に中世から江戸時代にかかる供養石造物1,500基が保存されており、周辺の元興寺の跡地で出土した講堂や鐘楼の礎石が移設されている。また浮図田では夏に石仏の合間にキキョウが咲き、本堂の周囲では初秋にハギが咲く。
「ならまち」では、元興寺塔跡・元興寺小塔院跡*11も、かつて大寺であった元興寺の面影を伝える。塔跡は、1859(安政6)年に焼失するまで元興寺旧伽藍の五重塔と観音堂があったところ。現在は華厳宗の元興寺となっている。小塔院跡は吉祥堂(西小塔院)の跡で、称徳天皇(718~770年)が百万塔を納めるために建立したといわれる。
本堂*5の極楽堂(極楽坊本堂)は鎌倉初期の1244(寛元2)年、元興寺旧伽藍の東室南階大房(僧坊)の3房分を聖堂に改造したもので、鎌倉時代の特徴がよく表れている新和様*6の建造物。極楽曼荼羅が安置されていることから極楽堂といい、曼荼羅堂とも称されている。本堂の奥には同じく東室南階大房4房分が禅室*7として遺されている。本堂、禅室ともに国宝に指定され、世界遺産にも登録されている。また屋根の一部には飛鳥の法興寺から運ばれてきた日本最古の瓦が葺かれている。本堂の南にある法輪館*8には国宝の五重小塔*9などが安置されている。東門*10はもと東大寺西南院の門を移築したもの。
境内には、1988(昭和63)年に整備された浮図田(ふとでん 石塔、石仏群)に中世から江戸時代にかかる供養石造物1,500基が保存されており、周辺の元興寺の跡地で出土した講堂や鐘楼の礎石が移設されている。また浮図田では夏に石仏の合間にキキョウが咲き、本堂の周囲では初秋にハギが咲く。
「ならまち」では、元興寺塔跡・元興寺小塔院跡*11も、かつて大寺であった元興寺の面影を伝える。塔跡は、1859(安政6)年に焼失するまで元興寺旧伽藍の五重塔と観音堂があったところ。現在は華厳宗の元興寺となっている。小塔院跡は吉祥堂(西小塔院)の跡で、称徳天皇(718~770年)が百万塔を納めるために建立したといわれる。
みどころ
かつては南側に元興寺の南大門があったというが、現在は、家々が並ぶ狭い道の東側から境内に入るようになっている。これはかつて門の位置が変わったことによるものだが、元興寺の衰退と極楽坊の独立化による宗派の変遷の歴史を物語っているという。境内は住宅地に囲まれているせいもあり、広さは感じないが、鎌倉期に僧坊を改築したという極楽堂(本堂)は、簡素であるが、のびやかに大屋根を広げている。また、法輪館には、国宝の五重小塔が安置されており、間近で見ると細部までに拘って造られたものであることがよく分かる。本堂裏手の禅室も、本堂同様、簡潔さがより際立つ建物であり、古寺としての風格が十分。
補足情報
*1 飛鳥寺:わが国最初の本格的寺院。飛鳥にあるので飛鳥寺というが、当初は法興寺・元興寺とも呼ばれた。蘇我馬子が排仏を唱える物部守屋を倒し、588(崇峻天皇元)年に造営を始め、596(推古天皇4)年に竣工した。606(推古天皇14)年に中金堂に安置した釈迦如来像が、現在も知られる飛鳥大仏である。蘇我氏の氏寺ながら、官寺に準じた扱いを受け、平城遷都に従って移転し、平城京の寺を元興寺と号し、飛鳥の寺は本元興寺とも呼ばれた。
*2 伽藍:往時の伽藍については、大正3年発行の「大和史料」に「手向八幡神社神官」所蔵の「元興寺古図」(制作年代不明)を引用しているが、これをみると、南向きの伽藍配置で、南大門(「元興寺」の扁額)、中門、金堂、大講堂、僧坊北室、食堂、北門(「飛鳥寺」の扁額)が一直線に並び、右に東金堂、僧坊東室、五重塔、宝蔵、東門(「法満寺」の扁額)、奥には極楽坊、太子堂などが建ち、左に西金堂、僧坊西室、花園、西門(「法興寺」の扁額)、奥には鎮守の飛鳥神社、吉祥堂が配置されている大寺であったと思われる境内図となっている。江戸中期の「大和名所図会」ではすでに「本堂(観音堂)」と「五重塔」しか描かれていない。
*3 智光:生没年不詳。元興寺に止住した、奈良時代の南都六宗のひとつ三論宗の学僧。同門の学友が浄土に往生したのを感得し、画工に浄土変相図の「智光曼荼羅」を描かせ、浄土往生の業を修め、浄土信仰に徹し、これを広めた。
*4 智光曼荼羅図:極楽坊本堂内陣の厨子背面に奉安されていたもの。横板を連ね漆下地を塗り黄土を重ね、その上に岩絵具を用いて阿弥陀如来を中心に極楽浄土世界の様子を細密に描いている。
*5 本堂:桁行6間、梁間6間、一重、寄棟造、妻入、正面1間通り庇付、本瓦葺。1244(寛元2)年改築。
*6 新和様:柱を貫で連結し、その先端の木鼻に装飾の繰形を付す、鎌倉時代以前に見られなかった、宋の新建築技術を取り入れた工法で、建築の構造・意匠に斬新さな影響を与えた。奈良時代以来の和様の建築様式に対し、この和様にこの工法を取り入れた建築物を新和様と呼んでいる。
*7 禅室:元興寺の東室南階大房(ひがしむろなんかいたいぼう)の12房のうちの4房分にあたり、鎌倉初期に大改造しているが、天平時代の僧房の形を知ることのできる建物として重要。正面4間、側面4間、単層、切妻造、正面の柱間をひじょうに広くとり、1間ごとに板扉と連子窓を設けてある。
*8 法輪館:本堂の南側にあり、五重小塔のほか、木造阿弥陀如来坐像などの寺宝を安置、本堂や禅室の解体修理の際に発見された中世の庶民信仰資料数万点などを保存している。隣に元興寺文化財研究所がある。元興寺文化財研究所は1967(昭和42)年に創立され、法輪館に保存する中世庶民信仰資料の整理・調査などを行っている。
*9 五重小塔:法輪館の主要な展示品の一つ。光明皇后の発願により建立された元興寺西小塔堂に安置されていたといわれる。天平時代に作られたといわれる元興寺大塔の雛型と伝えられる。高さ約5.6m、初層の平面は方1m、塔跡と比較すると、大塔の1/10くらいと考えられる。古代建築技法がわかる貴重な資料。
*10 東門:鎌倉後期のもの。極楽坊が元興寺子院から独立し、東向きの中世寺院として性格を改めた過程で、東大寺西南院から移築されたと考えられている。四脚門、切妻造、本瓦葺。
*11 元興寺塔跡・元興寺小塔院跡:元興寺塔跡は住宅地に囲まれた門前に「史跡元興寺塔跡」の碑が立ち、狭い空間に五重塔の基壇と礎石が遺る。元興寺小塔院跡に現在立つ小堂は江戸時代のものである。
*2 伽藍:往時の伽藍については、大正3年発行の「大和史料」に「手向八幡神社神官」所蔵の「元興寺古図」(制作年代不明)を引用しているが、これをみると、南向きの伽藍配置で、南大門(「元興寺」の扁額)、中門、金堂、大講堂、僧坊北室、食堂、北門(「飛鳥寺」の扁額)が一直線に並び、右に東金堂、僧坊東室、五重塔、宝蔵、東門(「法満寺」の扁額)、奥には極楽坊、太子堂などが建ち、左に西金堂、僧坊西室、花園、西門(「法興寺」の扁額)、奥には鎮守の飛鳥神社、吉祥堂が配置されている大寺であったと思われる境内図となっている。江戸中期の「大和名所図会」ではすでに「本堂(観音堂)」と「五重塔」しか描かれていない。
*3 智光:生没年不詳。元興寺に止住した、奈良時代の南都六宗のひとつ三論宗の学僧。同門の学友が浄土に往生したのを感得し、画工に浄土変相図の「智光曼荼羅」を描かせ、浄土往生の業を修め、浄土信仰に徹し、これを広めた。
*4 智光曼荼羅図:極楽坊本堂内陣の厨子背面に奉安されていたもの。横板を連ね漆下地を塗り黄土を重ね、その上に岩絵具を用いて阿弥陀如来を中心に極楽浄土世界の様子を細密に描いている。
*5 本堂:桁行6間、梁間6間、一重、寄棟造、妻入、正面1間通り庇付、本瓦葺。1244(寛元2)年改築。
*6 新和様:柱を貫で連結し、その先端の木鼻に装飾の繰形を付す、鎌倉時代以前に見られなかった、宋の新建築技術を取り入れた工法で、建築の構造・意匠に斬新さな影響を与えた。奈良時代以来の和様の建築様式に対し、この和様にこの工法を取り入れた建築物を新和様と呼んでいる。
*7 禅室:元興寺の東室南階大房(ひがしむろなんかいたいぼう)の12房のうちの4房分にあたり、鎌倉初期に大改造しているが、天平時代の僧房の形を知ることのできる建物として重要。正面4間、側面4間、単層、切妻造、正面の柱間をひじょうに広くとり、1間ごとに板扉と連子窓を設けてある。
*8 法輪館:本堂の南側にあり、五重小塔のほか、木造阿弥陀如来坐像などの寺宝を安置、本堂や禅室の解体修理の際に発見された中世の庶民信仰資料数万点などを保存している。隣に元興寺文化財研究所がある。元興寺文化財研究所は1967(昭和42)年に創立され、法輪館に保存する中世庶民信仰資料の整理・調査などを行っている。
*9 五重小塔:法輪館の主要な展示品の一つ。光明皇后の発願により建立された元興寺西小塔堂に安置されていたといわれる。天平時代に作られたといわれる元興寺大塔の雛型と伝えられる。高さ約5.6m、初層の平面は方1m、塔跡と比較すると、大塔の1/10くらいと考えられる。古代建築技法がわかる貴重な資料。
*10 東門:鎌倉後期のもの。極楽坊が元興寺子院から独立し、東向きの中世寺院として性格を改めた過程で、東大寺西南院から移築されたと考えられている。四脚門、切妻造、本瓦葺。
*11 元興寺塔跡・元興寺小塔院跡:元興寺塔跡は住宅地に囲まれた門前に「史跡元興寺塔跡」の碑が立ち、狭い空間に五重塔の基壇と礎石が遺る。元興寺小塔院跡に現在立つ小堂は江戸時代のものである。
関連リンク | 元興寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
元興寺(WEBサイト) 華厳宗元興寺 パンフレット 角川日本史辞典 角川書店 奈良地域関連資料画像データベース「板絵 智光曼荼羅 」奈良女子大学学術情報センター 「大日本名所図会.第1輯 第3編 大和名所図会」大正8年 89/375 国立国会図書館デジタルコレクション |
2024年12月現在
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