東大寺二月堂修二会(お水取り)とうだいじにがつどうしゅにえ(おみずとり)

二月堂の本尊の前で罪障を懴悔し、国家の安泰と万民の快楽(けらく)などを祈る十一面悔過(けか)*1の法要。3月1日から14日まで行われる。752(天平勝宝4)年、実忠*2が笠置山の竜穴で菩薩たちの行法を見て創始*3したと伝えられ、もとは旧暦2月に行われたので修二会*4と呼ぶ。
 現在の日程は次のとおりである。まず、前年の12月16日に翌年の修二会に参籠する練行衆(れんぎょうしゅう)とよばれる11人の僧侶が発表される。明けて2月20日からは「別火(べっか)」と称する前行が始まる。声明の練習のほか、紙衣(かみこ)絞り、椿の造花づくりなどといった準備がなされる。3月1日から本行が始まる。同日午前2時に、堂童子が火打石で切り出した火(一徳火)が燈明皿に移され、堂司(どうつかさ)が内陣にこれを運び入れると、修二会の開白となる。この燈明は二月堂の常灯として1年間灯され続ける。14日間の本行のうち前半は「上七日(じょうしちにち)」、後半は「下七日(げしちにち)」といい、期間中毎日「六時(ろくじ)の行法」*5が厳修される。六時とは、1日を昼から未明まで6つの時に分けたもの。日中(にっちゅう)、日没(にちもつ)、初夜(しょや)、半夜(はんや)、後夜(ごや)、晨朝(じんじょう)といい、六時それぞれに悔過作法が勤められ、その間にもさまざまな法要などが行われる。
 期間中の毎日、「お松明」があげられる。「お松明」は、11名の練行衆が、二月堂での行のために上堂する際の道明かりの意味があり、12日と14日以外は19時に大鐘を合図に始まる。12日の19時半からの「籠松明」では、長さ6mほどの根付きの竹の先端に、スギの薄板や葉で籠形に仕上げた直径1mほどの松明に火が付けられる。14日には「尻付き松明」と称し次々に松明があがり、一斉に火が振られる。
 本行中は毎晩、全国の神社の「神名帳」が読み上げられ、5日と12日の初夜の勤行のあとには、奈良時代から現代までの東大寺有縁者の名(「過去帳」*6)が読み上げられる。「上七日」の間は「小観音」が「大観音」の後ろに安置される。7日の夜「小観音の出御」を行い、「下七日」は「小観音」が「大観音」の前に置かれる。
 また、5~7日と12~14日の半夜のあとには、練行衆が内陣をぐるぐると回る「走りの行法」が行われる。実忠が感得した天界の1日は人間界の400年にあたるとされ、この時間差を縮めるために走るという。
 12日深夜(13日午前1時半ごろ)には「お水取り」が行われ、二月堂下の閼伽井屋(あかいや)という建物の中にある若狭井(わかさい)から本尊に供える香水を汲み上げる。
 12~14日には後夜のあと、達陀(だったん)という行法が勤められる。約40kgもある大松明を持った練行衆が堂内を駆けまわる。一連の行事の締めくくりとして、14日の深夜から15日の明け方にかけ「破壇」、「内陣涅槃講」などが行われ、15日の昼、「礼堂涅槃講」、「開山堂参拝」をもって解散する。
#

みどころ

宗教学者の山折哲雄によれば修二会(お水取り)が人気を集めたのは「三月十二日の『若水』(香水)を汲みあげる日に、天をこがすような大松明が礼堂にのぼって、闇の満天下に壮大な火の粉を降りまく儀式がおこなわれるからであった。若水と大松明というところから、いつしかそれは春の気を呼びこむための水と火の祭典とまで呼び慣わされるようになったのである。」としているが、山折はあえて、12日を避け、二月堂内での練行衆の行事をじっくりみたいと7日に二月堂にのぼっている。そしてそこでの光景を「十本の松明が一本づつ焚かれて二月堂をのぼる一方、礼堂の内部では深更にかけてはげしい五体投地と走りの行法がおこなわれていたのである。その上そこでは、この日のハイライトである『小観音の出御』という儀礼が秘めやかな雰囲気のうちに執行されていた」としている。その時の内陣の様子を、「灯明の薄明かりのなかで練行衆が経を読み、呪文を唱え、念珠をしごき、小型のシンバルのような銅拍子を打ち鳴らし、そしてほら貝を吹いている。殷々とした読経の声が堂内にこもり、床や壁や柱の間からは時空をとびこえた人間のうめき声がきこえてくるようだ」などと延々と描写している。このように、12日の「お水取り」の儀式だけでなく、この行事の奥深い種々の行法、法要を、いろいろな角度から拝観することで、この「修二会」の意義と歴史的背景をより深く理解することができるだろう。
#

補足情報

*1 十一面悔過(けか):「十一面」は「十一面観世音菩薩」を指す。「悔過(けか)」は過去の様々な過ちを、本尊である観世音菩薩の前で表白して許しを請い、「天下泰安」「風雨順時」「五穀成熟」「万民快楽」等を祈願すること。
*2 実忠:奈良から平安時代初期の僧。生没不詳。東大寺の初代別当である良弁のもと、東大寺の造営にあたり、二月堂の十一面悔過(修二会)を創始したといわれる。平安時代後期の「東大寺要録」によると実忠は享年85歳で、その経歴の29条のなかに「奉仕十一面悔過事 合七十年 自去天平勝寶四年 至大同四年 毎年二月一日二七日の間奉仕如件」と「十一面悔過」に長らく奉仕したと記されている。また、寺院の造営事業、経営の指導的役割を果たしており、西大寺など数多くの造営事業に関わった。
*3 創始:室町時代末期の「二月堂絵縁起」では、 「天平勝寶三年辛卯十月。實忠和尚。笠置寺(京都府笠置町)の龍穴より入りて。北一里ばかりを過る。都率の内院(菩薩が住む天界)成けり。四十九院。摩尼寶殿(濁水を澄ませる宝玉で飾られた宮殿)を巡禮す。其内諸天(天上界の神々)殊集て。十一面の悔過を勤修する所あり」としてここで実忠は行法を修得し持ち帰った。さらに「實忠和尚。二七ヶ日夜の行法の間。来臨影向(姿を現した)の諸神。一万三千七百餘座。その名をしるして。神名帳を定(さだめ)しに。若狭国に遠敷(おにゅう)明神(現・若狭彦神社)といふ神います。遠敷川を領して。魚を取て遅参す。神、是をなげきいたみて。其をこたりに(その苦しみをなおすために)。道場のほとりに。香水を出して奉るべきよしを。懇(ねんごろ)に和尚にしめし給ひしかば。黒白二の鵜。にはかに岩の中より飛出(とびいで)て。かたはらの樹にゐる。其の二のあとより、いみじくたぐひ(類い)なき甘泉わき出たり。石をたたみて閼伽井とす」とあり、魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が、二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ、観音様に奉ったという、「お水取り」の由来も伝えている。
*4 修二会:旧暦の2月1日から行われていたため、二月に修する法会ということから「修二会」と称されるようになった。なお、二月堂の「修二会」の起源については、宗教学者の山折哲雄は「実忠によって天平勝宝四年(七五二)に創始されたといわれてきた。しかしこの説は後代の伝承にもとづくものであって、実忠が実際に始めたものは二月におこなわれる『十一面悔過』の法会であったらしい。その『十一面悔過』と『修二会」の関係がどのようなものであったかについては異説があるが、ともかくもその儀礼の祖型が十一面観音を本尊とする繊悔の法会に発していたらしいことが推測される。そしてこのことと関連して、文献にあらわれる『修二会』の語がそれほど古いものではないということにも注意しておく必要がある…中略…東大寺の二月堂修二会のことになると、さらに時代が降って嘉承元年(一一0六)に成立した『東大寺要録』(巻四)の記述まで待たなければならないのである」としている。
*5 「六時の行法」:毎日6回勤められる。過ちを懺悔するため、練行衆が跳びはねるようにして体を浮かし、片方のひざを板に打ち付ける「五体投地」などの荒行も行われる。
*6 過去帳:過去帳の読み上げに際し、「青衣(しょうえ)の女人」という伝説がある。承元年間(1207~1211)に過去帳を読み上げていたところ、青い衣の女性が現れ、「何故わたしを読み落としたのか」と問うたといわれ、 とっさに「青衣(しょうえ)の女人」と読み上げると、女人は消えていったという。