新薬師寺
近鉄奈良駅から東南へ約2.3km、天平建築の本堂*1と本尊の薬師如来坐像*2、天平期の塑造彩色像の十二神将立像*3で知られている。草創については、聖武(しょうむ)天皇の病気平癒を祈って、747(天平19)年に光明(こうみょう)皇后が建立し、7躯の薬師如来像を安置したという。当時、天皇の発願による東大寺の大仏が造立されていたが、そのさなかに体調を崩した天皇の回復を祈るとともに、大仏の無事の完成も願われた。その後、天皇の病は治り、大仏も752(天平勝宝4)年に開眼した。創建当時の金堂は、現在の本堂の南西約150m、現在の奈良教育大学の敷地内にあったとみられる。基壇は東西50m以上、桁行9間の大きな建物で、堂内には7躯の如来像とそれぞれ2躯の脇侍、それに十二神将が安置されていたといわれている。しかしながら、962(応和2)年の暴風*4で金堂はじめ主要伽藍が倒壊し、以後、大寺としての姿を取り戻すことはできなかった。現本堂はもとの金堂が倒壊後、いつしか寺の中心となったもの。また現在の南門*5・東門*6・鐘楼*7・地蔵堂*8などは鎌倉時代に建立されたもの。
みどころ
文芸評論家亀井勝一郎は1942(昭和17)年に記した「大和古寺風物誌」のなかで、「新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に一幅の絵のごとく止っている。寺までのわずか二丁たらずの距離であるが、このあたりは春日山麓の高燥地帯で、山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた築地に蔦葛のからみつい ている荒廃の様が一種の情趣を添えている」と新薬師寺への道について描写しているが、現在も、住宅街が綺麗に整備されてはいるものの、狭い小路や築地塀などにその雰囲気を多少なりとも残している。山門をくぐり、正面の本堂に向き合うと、威圧感は感じさせないものの、すっきりと伸びやかに建ち上がっており、扉の簡潔な意匠が際立つ。堂内に入ると国宝の薬師如来坐像を中心に十二神将立像が円陣を組むように12方位ににらみを利かせている。本尊の薬師如来坐像はふくよかな体躯に、穏やかな表情ではあるが、どっしりとした強さも感じられる。十二神将は、ぐるっと回りながら拝観することができ、それぞれの巧みな造形を目の当たりに出来る。十二神将立像には、対応する干支の表示もあるので、自分の干支の神将をじっくり拝観してみるのも面白い。
補足情報
*1 本堂:国宝。正面7間、側面5間、入母屋造、天平時代の建築。内部は、天井を張らず化粧屋根裏を見せた簡素な造りで、床は瓦敷とし、周囲1間を外陣(げじん)とする。内陣(ないじん)の中央に円形の須弥壇を設け、その上に本尊薬師如来坐像と十二神将立像を安置している。
*2 薬師如来坐像:国宝。像高190cmの巨像。一木造と寄木造を折衷した珍しい技法で造られている。彩色や金箔を用いず、わずかに目と眉に墨、唇に朱を用いるだけの檀像風(香木の代用材を使った)の素木像であり、飜波式衣文などとともに平安初期彫刻の特徴を有する。
*3 十二神将立像:薬師如来を護衛する12の上位の大将で、84,000の眷属(または分身)を率いる。伐折羅(バザラ 戌)、迷企羅(メイキラ 酉)、頞你羅(アニラ 未)、波夷羅(ハイラ 辰)、安底羅(アンテラ 申)、珊底羅(サンテラ 午)、因達羅(インダラ 巳)、宮毘羅(クビラ 亥)、摩虎羅(マコラ 卯)、真達羅(シンダラ 寅)、招杜羅(ショウトラ 丑)、毘羯羅(ビギャラ 子)と称する大将である。12方位を守ることから干支にも譬えられている。昭和の補作である波夷羅大将像(細谷而楽作)を除く11躯は、木造台座裏桟2枚に天平の墨書があることから、天平時代の作とされ、国宝に指定されている。この十二神将は、平安時代に金堂が暴風で倒壊したため高円山麓にあった岩淵寺から移設したものともいわれている。各像とも像高はほぼ等身大で、いずれも忿怒の形相が鋭い。
*4 962(応和2)年の暴風:「東大寺要録」によると「 応和二年八月三十日。南大門。新薬師寺七仏。仆(倒)依大風也。同日新薬師七堂同仆(倒)」とある。これ以外の災害の記録としては、「続日本紀」には奈良時代の780(宝亀11)年正月の条に、「大雷。灾(災)於京中數寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔。并(並)金堂等。皆燒盡焉」と大きな雷震があって、新薬師寺の西塔などが焼失したと記録が残されている。「大和史料」では東大寺の記録から793(延暦12)年に新薬師寺の復興修理のため、東大寺から追加の施入があったことも紹介している。
*5 南門:境内の入口にある、当寺の表門。切妻造、本瓦葺の四脚門で鎌倉時代の建築。
*6 東門:本堂の東側にある切妻造、本瓦葺の四脚門で鎌倉時代の建築である。1983(昭和58)年の大修理の結果、創建当時は2本柱の簡素な建物と判明している。
*7 鐘楼:南門を入って右側にあり、3間2間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺の建物。袴腰を漆喰塗とした珍しい遺構で、鎌倉時代の建立。鐘は天平時代の制作。
*8 地蔵堂:本堂の前方左手にある。鎌倉時代の小仏堂建築。入母屋造、本瓦葺、1間四方。
*2 薬師如来坐像:国宝。像高190cmの巨像。一木造と寄木造を折衷した珍しい技法で造られている。彩色や金箔を用いず、わずかに目と眉に墨、唇に朱を用いるだけの檀像風(香木の代用材を使った)の素木像であり、飜波式衣文などとともに平安初期彫刻の特徴を有する。
*3 十二神将立像:薬師如来を護衛する12の上位の大将で、84,000の眷属(または分身)を率いる。伐折羅(バザラ 戌)、迷企羅(メイキラ 酉)、頞你羅(アニラ 未)、波夷羅(ハイラ 辰)、安底羅(アンテラ 申)、珊底羅(サンテラ 午)、因達羅(インダラ 巳)、宮毘羅(クビラ 亥)、摩虎羅(マコラ 卯)、真達羅(シンダラ 寅)、招杜羅(ショウトラ 丑)、毘羯羅(ビギャラ 子)と称する大将である。12方位を守ることから干支にも譬えられている。昭和の補作である波夷羅大将像(細谷而楽作)を除く11躯は、木造台座裏桟2枚に天平の墨書があることから、天平時代の作とされ、国宝に指定されている。この十二神将は、平安時代に金堂が暴風で倒壊したため高円山麓にあった岩淵寺から移設したものともいわれている。各像とも像高はほぼ等身大で、いずれも忿怒の形相が鋭い。
*4 962(応和2)年の暴風:「東大寺要録」によると「 応和二年八月三十日。南大門。新薬師寺七仏。仆(倒)依大風也。同日新薬師七堂同仆(倒)」とある。これ以外の災害の記録としては、「続日本紀」には奈良時代の780(宝亀11)年正月の条に、「大雷。灾(災)於京中數寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔。并(並)金堂等。皆燒盡焉」と大きな雷震があって、新薬師寺の西塔などが焼失したと記録が残されている。「大和史料」では東大寺の記録から793(延暦12)年に新薬師寺の復興修理のため、東大寺から追加の施入があったことも紹介している。
*5 南門:境内の入口にある、当寺の表門。切妻造、本瓦葺の四脚門で鎌倉時代の建築。
*6 東門:本堂の東側にある切妻造、本瓦葺の四脚門で鎌倉時代の建築である。1983(昭和58)年の大修理の結果、創建当時は2本柱の簡素な建物と判明している。
*7 鐘楼:南門を入って右側にあり、3間2間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺の建物。袴腰を漆喰塗とした珍しい遺構で、鎌倉時代の建立。鐘は天平時代の制作。
*8 地蔵堂:本堂の前方左手にある。鎌倉時代の小仏堂建築。入母屋造、本瓦葺、1間四方。
関連リンク | 新薬師寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
新薬師寺(WEBサイト) 亀井 勝一郎「大和古寺風物誌 」 Kindle版 文化遺産データベース 文化庁 本堂(WEBサイト) 文化遺産データベース 文化庁 絹本着色仏涅槃図(WEBサイト) 「大和志料上巻」195/446 国立国会図書館デジタルコレクション |
2024年12月現在
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