唐招提寺
近鉄橿原線西ノ京駅から北へ約600m、閑静な五条町の集落の一角に、木立の深い境内が広がっている。南大門*1をくぐると、正面に「天平の甍」の金堂*2が建ち、その背後に平城宮から移された講堂*3が構えている。奈良に遺る古代寺院のほとんどが兵火にかかっているなかで、創建時からの姿を維持しつつ、奈良時代から近世までの各時代の伽藍*4をよく遺している。金堂には本尊で国宝の盧舎那仏坐像*5、薬師如来立像*6、千手観音立像*7、四天王立像*8、梵天・帝釈天立像*9が安置され、講堂には弥勒如来坐像*10、国宝の持国天・増長天立像*11が祀られている。このほか寺宝を収蔵公開する新宝蔵*12なども建つ。
唐招提寺の歴史は、聖武天皇の招きに応じて、苦難の末に来日した鑑真*13が、平城京右京五条にあった新田部(にいたべ)親王の旧邸を賜り、759(天平宝字3)年に創建*14したことに始まる。私立の寺であったが、その後、官寺となった。朝廷の寄進による講堂、藤原仲麻呂の寄進による食堂と、順次伽藍を整え、金堂は鑑真の死後に建立された。平安遷都後は寺勢も衰えたが、鎌倉時代に僧覚盛*15が戒律を復興、諸堂を大改修した。江戸時代にも徳川5代将軍綱吉やその母桂昌院の寄進で修理を加えている。
年中行事は、5月19日のうちわまき*16、6月5~6日の開山忌舎利会*17、中秋の名月の日の観月讃仏会*18などがある。
唐招提寺の歴史は、聖武天皇の招きに応じて、苦難の末に来日した鑑真*13が、平城京右京五条にあった新田部(にいたべ)親王の旧邸を賜り、759(天平宝字3)年に創建*14したことに始まる。私立の寺であったが、その後、官寺となった。朝廷の寄進による講堂、藤原仲麻呂の寄進による食堂と、順次伽藍を整え、金堂は鑑真の死後に建立された。平安遷都後は寺勢も衰えたが、鎌倉時代に僧覚盛*15が戒律を復興、諸堂を大改修した。江戸時代にも徳川5代将軍綱吉やその母桂昌院の寄進で修理を加えている。
年中行事は、5月19日のうちわまき*16、6月5~6日の開山忌舎利会*17、中秋の名月の日の観月讃仏会*18などがある。
みどころ
唐招提寺のみどころは、天平時代の面影を強く残している伽藍や仏像で、境内に入った瞬間に、天平の色合いを感じ取ることができる。仏像も素晴らしいが、やはりなんといっても金堂の風格だろう。哲学者の和辻哲郎は、金堂について、斜め後ろから見た時、「古典的な、堂々とした落ちつきに見とれた」というが、それを横からみると、「大海を思わせるような大きい軒端の線のうねり方、ー特にそれを斜め横から見上げた時の力強い感じ、ーそこにはこの堂をはじめて見るのでないわたくしにとっても全然新しい美が感ぜられたのである。」としている。そして正面から改めてみると「今さらながらこの堂の優れた美しさに打たれざるを得なかった。この堂全体は右のような鋭い、細かい芸術家の直観から生まれている。」と絶賛している。まずは金堂を四方八方からゆっくり拝観して、天平期の面影をたっぷりと楽しむことをお勧めする。そのあと、じっくりと仏像に対面したい。
補足情報
*1 南大門:創建時の位置に1960(昭和35)年に天平様式で再建された。孝謙天皇宸筆と伝える勅額の複製(実物は新宝蔵に収蔵)を掲げている。門の左脇が拝観受付。
*2 金堂:国宝。南大門を入ると正面に見える。正面7間、側面4間、単層、寄棟造、本瓦葺。「南都唐招提寺略録」などの寺伝によれば、鑑真と共に来日した弟子の如宝が建立したという。大棟の両端を飾る鴟尾は、西側が創建当初のもの、東側は鎌倉時代の補作だったが、金堂の平成大修理の際にどちらも屋根から降ろされ、新造した鴟尾に置き換えられた。奈良時代と鎌倉時代の鴟尾は現在、新宝蔵に収蔵展示されている。正面庇の1間通りを吹放しとし、柱はかすかなエンタシスをもつ。内部は中央5間2面を内陣とし、須弥壇上に本尊盧舎那仏を中心に天平期の諸仏が並ぶ。
*3 講堂:国宝。荘重な金堂と対照的に、のびやかな建築美を見せている。正面9間、側面4間、単層、入母屋造、本瓦葺。平城宮の朝堂院の東朝集殿を移築したもので、数度の改修を経てはいるが、天平時代の宮殿建築の唯一の遺構として貴重。また講堂としても、法隆寺東院伝法堂と並ぶ天平期の数少ない例である。
*4 各時代の伽藍:鼓楼(舎利殿)は講堂の右手前方に立つ軽快な鎌倉建築で国宝。正面3間、側面3間の小規模な楼造であるが、よく整った姿である。鑑真請来の仏舎利を安置。
礼堂は鼓楼のすぐ東にあり、南北に細長い建物で長堂とも呼ぶ。三面僧房東室の遺構だが、南半分は本尊の釈迦如来立像を安置する礼堂に改造されている。正面19間、側面4間、単層、入母屋造の鎌倉建築。
経蔵、宝蔵は礼堂の東側に並ぶ2棟の校倉造で、南が経蔵、北が宝蔵である。正面3間、側面3間、寄棟造、本瓦葺。ともに天平時代の建築で国宝。
御影堂は境内の北、築地塀に囲まれた一郭の中央に立つ。もと興福寺一乗院の遺構で、1962(昭和37)年まで奈良地方裁判所の庁舎であった。1964(昭和39)年に移築、もとの寝殿造の姿に復元され、前面に左近の梅、右近の橘を配した典雅な建物。堂内には国宝の鑑真和上坐像を安置。周囲は東山魁夷画伯が10年以上の歳月をかけて描き、鑑真和上に捧げた襖絵の大作で飾られている。鑑真和上坐像は像高80.1cm、脱活乾漆、彩色、天平時代の作。両手をひざの上に置いて端座する盲目の姿で、慈悲をたたえたおだやかな表情のうちに強い意志がみなぎる。763(天平宝字7)年春、和上の死を予感した弟子の忍基らが造ったと伝えられる。境内の開山堂には、この鑑真和上坐像を忠実に再現した「鑑真和上お身代わり像」を安置。2013(平成25)年の和上の1250回忌に際して制作されたもので、国宝の和上像が6月5~7日しか開扉されないのに対し、お身代わり像はいつでも拝観できる。
鑑真和上廟所は境内の北東隅にある。方墳状の土壇を築き、その中心に石造宝篋印塔が立つ。
*5 盧舎那仏坐像:国宝。金堂の須弥壇の中央、八重蓮華座の上にゆったりと坐す脱活乾漆造の巨像。像高約3m、背後には文字通りの千体仏(現存は862体)をつけた千仏光背を背負っている。
*6 薬師如来立像:国宝。金堂の本尊盧舎那仏坐像の向かって右側に立つ脇侍。木心乾漆、漆箔、像高約3.4m。平安初期の作。後世の薬師如来のように薬壷は持たず与願施無畏印(よがんせむいいん)を結び、壷形の光背を背負っている。
*7 千手観音立像:国宝。本尊に向かって左側に立つ脇侍。像高約5.4m、木心乾漆造の遺例中最大の巨像である。天平末期の作。千手(大手42本、小手911本の計953本が現存、残りは欠失)を持つ最古最大の像として有名である。
*8 梵天・帝釈天立像:国宝。金堂の本尊盧舎那仏坐像の前方左右に立つ像高約1.9mの彩色像。桧材の一木彫成だが、髪や衣文の部分にかなり厚目の乾漆を盛り上げて、木彫の欠点を補っている。天平末期の作。
*9 四天王立像:国宝。金堂の須弥壇の四隅に立ち、造像技術、表現形式とも梵天・帝釈天に共通している。像高はいずれも約1.9m、木造一部乾漆、彩色、威嚇(いかく)や激怒の表情もかなりひかえ目で、大陸風の顔立ちである。
*10 弥勒如来坐像:講堂の本尊。像高約2.8m、寄木造、漆箔の巨像。鎌倉期の作で、胎内に1287(弘安10)年修補の墨書がある。飛天などの透彫を周縁に配した二重円相光背を背負っている。
*11 持国天・増長天立像:国宝。弥勒如来坐像の前方左右に立つ。像高は各1.3m、桧材の一木彫で、量感のある造形感覚は大安寺*の仏像群と共通している。天平末期の作。
*12 新宝蔵:宝蔵の東にある。1970(昭和45)年に完成した鉄筋コンクリート造の建物で、外観は校倉造を模している。天平末期に制作された国宝を含む多数の木彫仏、孝謙天皇の宸筆と伝わる天平時代の寺号勅額、金堂の平成大修理の際に屋根から降ろされた創建当初の鴟尾などを収蔵・公開している。
破損仏の如来形立像は講堂に安置されていたが、その伝来は明らかではない。頭部・両手を失い、体躯を残すだけの一木造、彩色像であるが、きめ細かい造形から、「唐招提寺のトルソー」と呼ばれる名作。薬師如来立像、衆宝王菩薩立像、獅小吼菩薩立像は、いずれも、もとは講堂に安置されていた天平時代の木彫像で国宝。3躯とも腕を欠失。薬師如来立像は像高約2m、量感のある造形は弘仁彫刻の先駆と見られる。衆宝王・獅子吼といわれる2菩薩はともに像高約1.7m、それまでの天平彫刻に見られない新しい造形感覚を示している。
*13 鑑真:688~763年 唐の揚州に生まれ、14歳で出家。742(天平14)年、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧の栄叡・普照から日本の朝廷の招請を聞き、日本へ渡ることを決意した。その後12年間に5回の渡航を試みたが、失敗。この間の苦労で視力を失うことになったものの、753(天平勝宝5)年、6回目にしてついに日本の土を踏んだ。以後、76歳までの10年間のうち、東大寺で5年、唐招提寺で5年を過ごした。756(天平勝宝8)年には大僧都に任じられ、大和上の称が与えられた。唐招提寺の開基後は、戒律研鑽の道場として衆僧に開放した。
*14 創建:779(宝亀10)年に著された鑑真の伝記である「唐大和上東征伝」では、創建について「時有勅旨施大和園地一區 是故新田部親王之舊(旧)宅 普照思託諸大和上以此地爲伽藍…中略…宝宇三年八月一日 私立唐律招堤名 後請官額 依此爲定」(新田部親王の旧宅に鑑真が伽藍をなし、「唐律招堤」の名で私に立て、その後官寺となることを請い、これが定まった)とし、これが「唐招提寺」となったとしている。
*15 覚盛:1194~1249年。鎌倉時代の律宗の僧。仁治年間(1240~1243年)には勅により唐招提寺に住した。律宗と唐招提寺の復興に尽くし、唐招提寺の中興の祖といわれる。
*16 うちわまき:覚盛の命日に行われる中興忌梵網会の法要の後、舎利殿(鼓楼)から数百本のうちわがまかれる。蚊も殺さなかった覚盛のために、その死後、法華寺の尼僧が蚊をはらう団扇を供えたことが始まりという。
*17 開山忌舎利会:鑑真の命日にちなんで、鑑真の徳を偲ぶ行事。6月5日午前9時から御影堂宸殿にて一山の僧侶による読経のなか、茶道藪内流家元紹智宗匠による献香、献茶などの法要、行事が行われる。この開山忌に合わせて、例年6月5~7日に御影堂の鑑真和上坐像が特別開扉される。
*18 観月讃仏会:鑑真和上像を安置する御影堂の庭園が特別に開放される。金堂では法要が行われ、御影堂では、献茶式などが行なわれる。
*2 金堂:国宝。南大門を入ると正面に見える。正面7間、側面4間、単層、寄棟造、本瓦葺。「南都唐招提寺略録」などの寺伝によれば、鑑真と共に来日した弟子の如宝が建立したという。大棟の両端を飾る鴟尾は、西側が創建当初のもの、東側は鎌倉時代の補作だったが、金堂の平成大修理の際にどちらも屋根から降ろされ、新造した鴟尾に置き換えられた。奈良時代と鎌倉時代の鴟尾は現在、新宝蔵に収蔵展示されている。正面庇の1間通りを吹放しとし、柱はかすかなエンタシスをもつ。内部は中央5間2面を内陣とし、須弥壇上に本尊盧舎那仏を中心に天平期の諸仏が並ぶ。
*3 講堂:国宝。荘重な金堂と対照的に、のびやかな建築美を見せている。正面9間、側面4間、単層、入母屋造、本瓦葺。平城宮の朝堂院の東朝集殿を移築したもので、数度の改修を経てはいるが、天平時代の宮殿建築の唯一の遺構として貴重。また講堂としても、法隆寺東院伝法堂と並ぶ天平期の数少ない例である。
*4 各時代の伽藍:鼓楼(舎利殿)は講堂の右手前方に立つ軽快な鎌倉建築で国宝。正面3間、側面3間の小規模な楼造であるが、よく整った姿である。鑑真請来の仏舎利を安置。
礼堂は鼓楼のすぐ東にあり、南北に細長い建物で長堂とも呼ぶ。三面僧房東室の遺構だが、南半分は本尊の釈迦如来立像を安置する礼堂に改造されている。正面19間、側面4間、単層、入母屋造の鎌倉建築。
経蔵、宝蔵は礼堂の東側に並ぶ2棟の校倉造で、南が経蔵、北が宝蔵である。正面3間、側面3間、寄棟造、本瓦葺。ともに天平時代の建築で国宝。
御影堂は境内の北、築地塀に囲まれた一郭の中央に立つ。もと興福寺一乗院の遺構で、1962(昭和37)年まで奈良地方裁判所の庁舎であった。1964(昭和39)年に移築、もとの寝殿造の姿に復元され、前面に左近の梅、右近の橘を配した典雅な建物。堂内には国宝の鑑真和上坐像を安置。周囲は東山魁夷画伯が10年以上の歳月をかけて描き、鑑真和上に捧げた襖絵の大作で飾られている。鑑真和上坐像は像高80.1cm、脱活乾漆、彩色、天平時代の作。両手をひざの上に置いて端座する盲目の姿で、慈悲をたたえたおだやかな表情のうちに強い意志がみなぎる。763(天平宝字7)年春、和上の死を予感した弟子の忍基らが造ったと伝えられる。境内の開山堂には、この鑑真和上坐像を忠実に再現した「鑑真和上お身代わり像」を安置。2013(平成25)年の和上の1250回忌に際して制作されたもので、国宝の和上像が6月5~7日しか開扉されないのに対し、お身代わり像はいつでも拝観できる。
鑑真和上廟所は境内の北東隅にある。方墳状の土壇を築き、その中心に石造宝篋印塔が立つ。
*5 盧舎那仏坐像:国宝。金堂の須弥壇の中央、八重蓮華座の上にゆったりと坐す脱活乾漆造の巨像。像高約3m、背後には文字通りの千体仏(現存は862体)をつけた千仏光背を背負っている。
*6 薬師如来立像:国宝。金堂の本尊盧舎那仏坐像の向かって右側に立つ脇侍。木心乾漆、漆箔、像高約3.4m。平安初期の作。後世の薬師如来のように薬壷は持たず与願施無畏印(よがんせむいいん)を結び、壷形の光背を背負っている。
*7 千手観音立像:国宝。本尊に向かって左側に立つ脇侍。像高約5.4m、木心乾漆造の遺例中最大の巨像である。天平末期の作。千手(大手42本、小手911本の計953本が現存、残りは欠失)を持つ最古最大の像として有名である。
*8 梵天・帝釈天立像:国宝。金堂の本尊盧舎那仏坐像の前方左右に立つ像高約1.9mの彩色像。桧材の一木彫成だが、髪や衣文の部分にかなり厚目の乾漆を盛り上げて、木彫の欠点を補っている。天平末期の作。
*9 四天王立像:国宝。金堂の須弥壇の四隅に立ち、造像技術、表現形式とも梵天・帝釈天に共通している。像高はいずれも約1.9m、木造一部乾漆、彩色、威嚇(いかく)や激怒の表情もかなりひかえ目で、大陸風の顔立ちである。
*10 弥勒如来坐像:講堂の本尊。像高約2.8m、寄木造、漆箔の巨像。鎌倉期の作で、胎内に1287(弘安10)年修補の墨書がある。飛天などの透彫を周縁に配した二重円相光背を背負っている。
*11 持国天・増長天立像:国宝。弥勒如来坐像の前方左右に立つ。像高は各1.3m、桧材の一木彫で、量感のある造形感覚は大安寺*の仏像群と共通している。天平末期の作。
*12 新宝蔵:宝蔵の東にある。1970(昭和45)年に完成した鉄筋コンクリート造の建物で、外観は校倉造を模している。天平末期に制作された国宝を含む多数の木彫仏、孝謙天皇の宸筆と伝わる天平時代の寺号勅額、金堂の平成大修理の際に屋根から降ろされた創建当初の鴟尾などを収蔵・公開している。
破損仏の如来形立像は講堂に安置されていたが、その伝来は明らかではない。頭部・両手を失い、体躯を残すだけの一木造、彩色像であるが、きめ細かい造形から、「唐招提寺のトルソー」と呼ばれる名作。薬師如来立像、衆宝王菩薩立像、獅小吼菩薩立像は、いずれも、もとは講堂に安置されていた天平時代の木彫像で国宝。3躯とも腕を欠失。薬師如来立像は像高約2m、量感のある造形は弘仁彫刻の先駆と見られる。衆宝王・獅子吼といわれる2菩薩はともに像高約1.7m、それまでの天平彫刻に見られない新しい造形感覚を示している。
*13 鑑真:688~763年 唐の揚州に生まれ、14歳で出家。742(天平14)年、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧の栄叡・普照から日本の朝廷の招請を聞き、日本へ渡ることを決意した。その後12年間に5回の渡航を試みたが、失敗。この間の苦労で視力を失うことになったものの、753(天平勝宝5)年、6回目にしてついに日本の土を踏んだ。以後、76歳までの10年間のうち、東大寺で5年、唐招提寺で5年を過ごした。756(天平勝宝8)年には大僧都に任じられ、大和上の称が与えられた。唐招提寺の開基後は、戒律研鑽の道場として衆僧に開放した。
*14 創建:779(宝亀10)年に著された鑑真の伝記である「唐大和上東征伝」では、創建について「時有勅旨施大和園地一區 是故新田部親王之舊(旧)宅 普照思託諸大和上以此地爲伽藍…中略…宝宇三年八月一日 私立唐律招堤名 後請官額 依此爲定」(新田部親王の旧宅に鑑真が伽藍をなし、「唐律招堤」の名で私に立て、その後官寺となることを請い、これが定まった)とし、これが「唐招提寺」となったとしている。
*15 覚盛:1194~1249年。鎌倉時代の律宗の僧。仁治年間(1240~1243年)には勅により唐招提寺に住した。律宗と唐招提寺の復興に尽くし、唐招提寺の中興の祖といわれる。
*16 うちわまき:覚盛の命日に行われる中興忌梵網会の法要の後、舎利殿(鼓楼)から数百本のうちわがまかれる。蚊も殺さなかった覚盛のために、その死後、法華寺の尼僧が蚊をはらう団扇を供えたことが始まりという。
*17 開山忌舎利会:鑑真の命日にちなんで、鑑真の徳を偲ぶ行事。6月5日午前9時から御影堂宸殿にて一山の僧侶による読経のなか、茶道藪内流家元紹智宗匠による献香、献茶などの法要、行事が行われる。この開山忌に合わせて、例年6月5~7日に御影堂の鑑真和上坐像が特別開扉される。
*18 観月讃仏会:鑑真和上像を安置する御影堂の庭園が特別に開放される。金堂では法要が行われ、御影堂では、献茶式などが行なわれる。
関連リンク | 唐招提寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
唐招提寺(WEBサイト) 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)「鑑真」「覚盛」 「唐大和上東征傳」西尾市 岩瀬文庫23/28 奈良市教育委員会「奈良の世界遺産学習 唐招提寺」 「大日本仏教全書118 南都唐招提寺略録一巻」仏書刊行会 明治45~大正11年 155/288 国立国会図書館デジタルコレクション |
2024年12月現在
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