飛鳥寺あすかでら

わが国最初の本格的寺院。飛鳥にあるので飛鳥寺と呼ばれるが、当初は法興寺・元興寺ともいわれた。
 飛鳥寺の創建の経緯は「日本書記」に記されている。仏教受容派の蘇我氏と排除派の物部氏の対立は、587( 用明天皇2) 年、皇位継承争いと相まって戦いとなり、蘇我馬子はこの戦いに際し寺院建立と仏法流布を誓った。物部守屋が滅亡すると、588(崇峻天皇元)年に飛鳥寺の建立*1に着手し、権力を掌握した蘇我氏は朝鮮半島の最新の技術*2をもって建設を進め、596(推古天皇4)年に竣工した。塔を中心に東西北の三方に金堂を置く独特の伽藍配置*3であった。ついで606(推古天皇14)年に釈迦如来坐像*4を中金堂に安置した。これは鞍作止利*5が作った仏像で、実際に完成したのは609(推古天皇17)年ともいわれ、現在では飛鳥大仏と称されている。蘇我氏の氏寺ながら、官寺に準じた扱いを受けるほどの大寺だったが、平城遷都に従って移転し、平城京の寺を元興寺と号し、飛鳥の寺は本元興寺*6とされた。中世以降は荒廃したが、江戸時代前期に安居院*7(あんごいん)と称する小堂が建てられ、法灯を継いできた。現在、創建時の大伽藍の面影はないが、1826(文政9)年再建の本堂には、日本最古の仏像である飛鳥大仏が坐す。この本堂は創建時の中金堂跡に建てられており、飛鳥大仏は創建時のままずっと同じ場所に坐していることが、発掘調査により確認されている。また、境内には金堂や塔の礎石が残り、1400年の歴史を伝えている。
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みどころ

飛鳥寺での見どころは、なんといっても飛鳥大仏であろう。間近で拝観することができ、じっくり向き合えるのは嬉しい。五木寛之も「百寺巡礼」のなかで「なんという表情をしていらっしゃるのだろう。考えるというか、思惟するというか、言葉で表現できないような不思議な雰囲気をもっていて、なんとも魅力的だ。私はしばらくその場を離れることができなかった」と、飛鳥大仏との対面に感動したことを書いている。さらに、大仏の特徴を「神秘的であり、威厳に満ちた格調高い表情。」「お顔は面長で、ほっそりしている。 鼻が高く、首も長い。文献などには〈アルカイック・スマイル〉と表現されている」と描写している。
 飛鳥寺の西側には「入鹿の首塚」があり、その周辺に広がる飛鳥寺西方遺跡は、大化改新を主導した中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場*8として「日本書紀」に記される「槻木(つきのき=ケヤキ)の広場」の跡とされる。現在はのどかな景色が広がるばかりだが、あたりをのんびり散策し、遠く飛鳥時代に思いを馳せたい。
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補足情報

*1 飛鳥寺の建立:「日本書紀」の588(崇峻天皇元)年に物部守屋を滅ぼした、蘇我馬子は「蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地、起法興寺(飛鳥寺)。」(蘇我大臣も当初の誓願どおり、飛鳥の地に飛鳥寺を興した)と記されている。
*2 朝鮮半島の最新の技術:百済から各種技術者が来日、こののちの日本文化に大きな影響を与えた。また本尊鋳造のために「高麗國大興王」から「黄金三百両」が贈られたことも「日本書紀」に記載されている。
*3 独特の伽藍配置:一塔三金堂を有する「飛鳥寺式伽藍配置」と呼ばれ、朝鮮半島の影響とも考えられているが、飛鳥寺と全く同じ伽藍配置をもつ寺院は、現在のところは発見されていない。飛鳥寺式の伽藍配置は中軸線上に南から南門・中門・塔・中金堂・講堂が一直線に並び、西金堂と東金堂が塔を正面にして対称に配置されている。中門から三金堂と塔を囲む回廊は、中金堂の背後で閉じられ、その北側に講堂が配置されている。
*4 釈迦如来坐像:飛鳥大仏と称されている。606(推古天皇14)年に鞍作止利が作った日本最古の丈六の仏像である。鎌倉時代に火災に遭い、その後の補修跡が目立つが、当初の部分を残し(その範囲は諸説あり)、面長な顔、アルカイックスマイル、杏仁形の目などに飛鳥時代の仏像の特徴を明確に伝えている。
*5 鞍作止利:生没年不詳。飛鳥時代に活躍した仏師。鞍作氏は止利の祖父が中国あるいは朝鮮半島から渡来した渡来系氏族で、鞍作りにはじまり金銅仏などの工芸品、仏像などの制作に携ったといわれている。止利の作品は中国の北魏様式や銅造鍍金(めっき)の技術を採用した止利様式といわれ、飛鳥彫刻を代表する。止利が作った仏像としては、飛鳥大仏のほかに法隆寺金堂釈迦三尊像などが知られている。
*6 本元興寺:貞観4年(862)8月の太政官符のなかで「去和銅三(710)年帝都遷平城之日。諸寺随移。件寺獨留。朝庭更造新寺。偹(備)其不移闕(欠)。所謂元興寺是也。」として、平城京に遷都した時に諸寺もこれに随って移ったが、この(飛鳥)寺はひとり留まり、同寺が移転をしないことに備え、朝廷は平城京に新しい寺を造り、これを元興寺とし、留まった寺は本元興(飛鳥)寺になったという。
*7 安居院:江戸時代中期の「大和名所図会」では、江戸期の状況を「今は密宗にして烏形山安居院と號す。舊址飛鳥村の北、田畑の中に礎石九十ばかりあり」と記している。 596(推古天皇4)年、仏教広布に尽くしていた高麗僧慧慈・百済僧慧聰を安居させたことにちなんで名付けたといわれている。安居とは旧暦4月15日~7月15日の3カ月間僧侶が篭って修行すること。
*8 中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場:「日本書紀」の644(皇極天皇3)年正月の条では、中臣鎌子(鎌足)が「偶預中大兄於法興寺槻(けやきの古名)樹之下打毬(蹴鞠)之侶。而候皮鞋毬脱落。取置掌中。前跪恭奉。中大兄對跪敬執。自茲相善。倶述所懐。」と記し、鎌足が法興(飛鳥)寺で中大兄皇子とともに蹴鞠を行う機会を得て、中大兄皇子の靴が脱げ、その靴をひざまずいて、靴を渡したのをきっかけに親交を結び、ともに思うところ(蘇我氏への対応)を述べ合うようになったとしている。

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