城崎温泉きのさきおんせん

JR山陰本線城崎温泉駅から約350mほどのところ、東西に流れる大谿(おおたに)川の谷あいに沿って形成された温泉街。大谿川は温泉街のすぐ下流で、円山川と合流し日本海に注いでいる。温泉街はこの大谿川に沿うように柳の並木が植栽され、川には数メートルおきに丸い石橋も架けられている。この街並みには老舗の旅館*だけではなく、城崎名物の外湯(共同浴場)7ヵ所*が点在し、みやげ物店や飲食店などが建ち並び、浴衣姿のそぞろ歩きが似合う、昔ながらの温泉情緒に溢れている。このような現在の温泉街の形成には1925(大正14)年の北但大震災による壊滅的な被害を乗り越え、防災を意識しつつも古くからの街並みを再建した地元住民の努力の結果が現れている。
 城崎温泉の開湯伝説では、舒明天皇のころ(7世紀前半)にコウノトリの湯浴みによって発見されたともされ、現在の外湯「鴻の湯」がこれに因んでおり、また、温泉街の北側の山腹にある温泉寺の縁起では、717(養老元)年に道智上人がこの地でお告げにより難病を苦しむ人々のため一千日間経を唱え、この「曼荼羅行」が満願となった際に現在の外湯「まんだらの湯」付近に湧出したとも伝えられている。
 文献上では、平安期の古今和歌集に藤原兼輔が「但馬国のゆ(湯)へまかりける時に、ふたみのうらといふ所にとまりて」と、城崎温泉に行く際に、二見の浦(播磨明石または城崎温泉の南にある豊岡市城崎町二見とも)という所に泊って詠んだ歌が掲載されており、また、14世紀後半の史書「増鏡」には1267(文永4)年に後堀河天皇の姉の「安嘉門院」が「丹後の天橋立御覧じにとておはします。それより、但馬の城崎のいでゆ(出湯)めしに下らせ給ふ」と記録しており、平安期には、すでに都にも知られた温泉だったことが分る。
 江戸中期の地誌「但馬考」では各外湯の泉質・効能が触れられており、街並みは「上の町は、間に野道の民家を隔て、又一筋の町有り、下の町温泉の左右皆客舎なり」として、江戸中期には大谿川の下流の方が中心街となっており、江戸後期以降順次上流に温泉街が広がっていったとされる。1912(明治45) 年までには山陰本線などの鉄道が開通し、明治から昭和初期には志賀直哉をはじめとして多くの文人・文豪が訪れている。
 城崎温泉は外湯(共同浴場)を中心に発展したが、どの旅館も第2次世界大戦後の1950(昭和25)年頃には内湯を有するようになったものの、7ヵ所の外湯は現在もそれぞれに特徴を有し、賑わいを見せている。
 旅館は70軒ほど、山陰の名物料理であるカニ料理はシーズンには各旅館で味わえる。また、温泉街には城崎文芸館や城崎麦わら細工伝承館、温泉寺や大師山に登るロープウエイなどがある。最近では、官民学が連携して豊岡演劇祭をはじめ数多くのイベントが開催されている。
#

みどころ

城崎温泉は、文豪に愛された老舗や特色のある旅館が温泉街に数多く建ち並んでおり、それぞれの旅館では美味しい料理が提供され、素晴らしい内湯も設けられている。ただ、城崎温泉の魅力はなんといっても、柳並木の温泉街をそぞろ歩きしながら、外湯を巡ることだろう。まだ内湯の整備がされていなかった1926(大正15)年に城崎を訪れた泉鏡花は「城崎を憶ふ」で「景勝愉樂の郷にして、内湯のないのを遺憾とす、と云ふ、贅澤なのもあるけれども、何、青天井、いや、滴る青葉の雫の中なる廊下續きだと 思へば、渡つて通る橋にも、川にも、細々とからくりがなく洒張りして一層好い」と、城崎温泉の外湯の良さを讃えている。
 また、志賀直哉の城崎温泉に関する作品は「城の崎にて」が余りに有名だが、「暗夜行路」でも北但大震災の直前の1922(大正11)年頃の温泉街を「俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めはむしろ曲輪(くるわ)の趣きに近かった。又温泉場としては珍らしく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い路を入って行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼、そういう店々が続いた。殊に麦藁を開いて貼った細工物が明るい電灯の下に美しく見えた」と描写している。いまもこの温泉情緒ある街並みが復興・維持され、さらに新たな取り組みに挑戦しながら賑わいを見せている温泉地である。ここではゆったりとカニ料理を楽しんだあと、特色ある内湯、外湯をたっぷりと楽しみたいものだ。
#

補足情報

*老舗の旅館:安政年間に創業し、国の登録有形文化財の大広間棟や客室棟を有する「西村屋本館」、元禄年間の創業で志賀直哉が「城の崎にて」を執筆したという「三木屋」、元禄年間の創業で江戸中期の地誌「但馬考」にも「油筒屋」の名があり、田山花袋、島崎藤村など文人文豪に愛された「ゆとうや」、開湯伝説の道智上人に屋敷を提供としたと伝えられる日生下(ひうけ)家が代々受け継いできた「古まん」など多彩な老舗旅館が数多くある。これ以外にも特色ある旅館群が建ち並んでいる。
*外湯(共同浴場)7カ所:「鴻の湯」は7湯中一番古く、町の奥はずれにあり、三方山に囲ほれた閑静な中に立つ小ぢんまりとした和風建築で庭園風呂がある。「まんだら湯」は道智上人の開湯伝説に因んだ湯であり、唐破風造で緑の木木に包まれている。「御所の湯」は後堀河天皇の姉安嘉門院が来湯したことにちなみ名付けられた。民芸風の建物。「一の湯(古くは新湯)」は7湯中一番大きく、和風鉄筋コンクリート造。江戸中期の儒医香川修徳は「一本堂薬選続篇」でこの湯について「此邦諸州温泉極多 而但州城崎新湯為最第一(この国には温泉が極めて多いが、しかして但馬国城崎新湯がもっとも第一となす)」と激賞したと伝えられる。「柳湯」は和風建築。「地蔵湯」は六角形の玄武岩をモチーフにした近代的コンクリート造。泉源から地蔵尊が出たという由来をもつ。「さとの湯」は外湯のなかで一番新しい温泉。城崎温泉駅の至近距離にあり、電車の待ち時間を利用して入湯するのもよいだろう。(改修のため2024年4月1日から長期休業中)