姫路城ひめじじょう

JR山陽新幹線・山陽本線・山陽電鉄姫路駅から姫路城大手門前まで北へ約1km。姫路市街北西寄りの姫山(標高45.6m)の山上にある。明治以後、多くの城が失われたなかで、姫路城だけは、大天守・小天守をはじめ、渡櫓・塀・城門などが完備した形で残され、江戸初期の築城技術を知る上に重要な資料となっている。主要部を白漆喰総塗籠造*1でちょうど優美に白鷺が飛んでいるように見えることから「白鷺城」の異名をもつ。大天守、西小天守、東小天守、乾小天守、イ・ロ・ハ・ニ渡櫓8棟は国宝に指定されており、そのほかの櫓、門、土塀も国の重要文化財に指定されている。姫路城の面積は内曲輪だけで23万m2、外曲輪を含めると233万m2あったとされる。天守群は5重6階(地下1階)の大天守を中核として3つの小天守から連立式となっている。大天守は姫山の上に14.85mの天守台と31.5mの大天守が築かれ、姫山の標高と合わせ約92mの高さを誇る。大天守を支えるため、内部には東西に2本、長さ約24mの心柱が通っている。
 世界遺産の姫路城を含め城跡全体は姫路公園となっており、大手門を入ると、天守閣を正面にする三の丸広場、西側には千姫ぼたん園、東側には市立の動物園と美術館*2があり、天守閣の裏手には、姫路公園の園内公園である姫山公園、市制100年を記念したシロトピア記念公園や兵庫県立歴史博物館*3などがある。また、姫路城に西隣して西御屋敷跡庭園「好古園」がある。
 同城の歴史は1333(元弘3)年に播磨の豪族赤松則村*4・貞範父子が姫山の麓に砦を築いたのがはじめといわれている。その後1441(嘉吉元)年の嘉吉の乱で赤松氏は滅び、山名氏の持城となったが、1467(応仁元)年の応仁の乱の勃発に際し赤松一族の政則が奪還し、城地を拡張した。戦国時代には赤松氏の被官小寺氏、その家臣の黒田氏*5が守っていたが、豊臣秀吉の中国毛利氏攻めの拠点となり、三層の天守や堀・石垣などが造られた。実質的には、これが姫路城の基といわれている。
 関ヶ原の合戦後、池田輝政*6が1601(慶長6)年に52万石をもって城主となり、8年の歳月をかけて完成したのが、現在の姫路城である。この時に大天守に3つの小天守が連立式に組み合された天守となり、渡櫓や石塁と合わせ現在の形となった。7年後、池田氏は鳥取に移封され、本多忠政が入城、嫡男忠刻・千姫*7夫妻のために建てた化粧櫓や西ノ丸などによって、その全容が整えられた。城主はその後、松平・榊原・酒井と代わり、酒井氏が明治維新まで10代120年間、15万石の大名として在城した。
 1964(昭和39)年、8年を費やした解体修理が完成し、さらに2015(平成27)年には約5年半かけて大天守の屋根瓦の葺き替え、白壁の漆喰の塗り替えなど平成の修理が完了している。入城有料。
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みどころ

姫路城へは姫路駅から、その壮麗壮大な姿を見ながら大手門まで歩き、広々とした三の丸広場から大天守等の威容を仰ぎ見るのが良い。とくに五重の大天守は各層が上層に向かい理想的な逓減率を保ち、それにより均整の取れた美しいシルエットを生み出しているので、これを各所から仰ぎ見て楽しみたい。
 三の丸広場を抜け、菱の門から城郭の主要部に入り、いの門~ろの門~はの門~にの門~大天守~お菊の井戸*8~るの門と回って、菱の門に戻り、さらに西ノ丸~百間廊下~化粧櫓と回れば一巡したことになるが、所要時間は約1時間30分から2時間ほど見ておく必要がある。なお、時間が無ければ、大天守を中心に回ることができるが、それでも1時間は見ておきたい。
 みどころは多いが、まずは大天守へ。姫山の頂上部にあたる本丸は、天守閣、備前丸、水曲輪、腰曲輪、帯曲輪に分かれ、大天守では、その威容壮麗さはもちろんだが、入母屋破風と千鳥破風・唐破風の巧みな配置に目が行く。大天守に対しロの字型の三隅に配された3つの小天守はいずれも3層で、内庭の台所があり、より一層、姫路城を堅固にしている。この連立式の配置も城郭建築の完成形の一つと言われている。このほか、輝政の次男忠継が備前28万石を領有していたものの、幼少のため任地に赴かず姫路城に留まっていた際の居館跡である「備前丸」も、大天守を間近に見られる写真スポットとして要チェックだ。最後に西ノ丸に回って、渡櫓から化粧櫓まで長い廊下に沿って千姫の侍女のいた長局(ながつぼね)の小室が並ぶ百間廊下と千姫の化粧料10万石で築いた桃山期の居館様式を伝えている二層櫓の化粧櫓も見たい。
 城内には江戸末期の陽明学者頼山陽の漢詩が掲示され、「五畳城楼挿晩霞 瓦紋時見刻桐花 兗州曽啓阿瞞業 淮鎮堪興匡胤家 甸服昔時随臂指 勲藩今日扼喉牙 猶思経略山陰道 北走因州路作叉(意訳:五層の天守には夕霞が差し込み 桐花が刻まれた瓦紋〔秀吉の家紋だが、池田・本多・酒井各氏も瓦紋として使用したという〕が時として見える この城は中国の曹操や北宋の太祖の故事と重なる かつては思いのままに都や畿内の軍事・政治状況に影響力を発揮し 今日では幕府に勲功のあった藩が要衝として抑え 相変わらず山陰諸国を経略し 北の因幡への道が交差するところでもある)」と、姫路城が中近世において重要な城であったかを示している。その重要性は、城内を巡ってみれば壮麗さだけを求めたのではなく、当時の城郭建築の集大成としていかに堅固に造られているかも理解できるだろう。
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補足情報

*1 白漆喰総塗籠造:建物の外面に露出している部分を白い漆喰で塗り込めた造りで、屋根瓦にも白漆喰を使用している。この造りは耐火性に優れていると言われている。このため、姫路城は白鷺を連想させるほど、白色が際立つ城郭である。
*2 市立美術館:郷土ゆかりの美術家の優れた作品および郷土の歴史・風物等に関する美術作品や自然主義、写実主義のコロー、クールベ、印象派のモネやピサロ、野獣派のヴラマンクを経て、マティスまで19世紀から20世紀にかけてのフランス美術を中心とする國富奎三コレクションなどを展示。入館有料。
*3 兵庫県立歴史博物館:姫路城関連の展示コーナー、ひょうごの祭り、美術工芸品などの常設展や収蔵品の企画展などを開催。入館有料。
*4 赤松則村:1277~1350年。南北朝前期の武将で播磨国の守護。反鎌倉幕府軍として挙兵。京に進軍する際に、姫山に砦を築いた。その後、1346(正平元)年に次男貞範が同地に本格的な城を築いた。
*5 黒田氏:16世紀半ば、室町時代末期に黒田職隆が赤松一族の小寺氏の女婿として姫路城を預かっていたが、職隆の子孝高(官兵衛=如水)は小寺氏から離反して中国攻略を進める織田信長方に組する。1580(天正13)年に羽柴秀吉に姫路城を献上し、秀吉が中国攻めの本拠地として3層の天守を築いた。
*6 池田輝政:1565~1613年。尾張に生れ、大垣城主。秀吉から信任が厚く、美濃岐阜城、三河吉田城主となった。しかし、家康の娘を秀吉の命で継室としたことをきっかけに、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦功があったことから関ヶ原の戦いの後、1600(慶長5)年に52万石を賜り姫路城に入城した。翌年から大改築に着手し、1609(慶長14)年に大天守を完成させた。輝政の子光政は1617(元和3)年に鳥取に転封した。
*7 千姫:1597~1666年。徳川秀忠の長女。7歳で豊臣秀頼に嫁ぐが、12年後大坂城陥落の際に保護され、1616(元和2)年に姫路城主本多忠政の子忠刻に再嫁した。10年後に忠刻が病没したため、落飾し大樹院となり江戸に戻った後は、幕政に影響を与えた。
*8  お菊の井戸:浄瑠璃や歌舞伎で知られる「番町皿屋敷」の切り殺されて井戸に放り込まれたヒロインのお菊の話は、もともとは江戸の話ではなく、この姫路城内の古井戸だったとされる。もとは釣瓶取井戸と呼ばれていた。太鼓櫓から「ぬの門」に向かう途中にある。
関連リンク 世界遺産姫路城(姫路城管理事務所)(WEBサイト)
参考文献 世界遺産姫路城(姫路城管理事務所)(WEBサイト)
「姫路城大天守 保存修理工事」鹿島建設株式会社(WEBサイト)
「頼山陽全集 詩集 姫路懐古」昭和7年 266/447 国立国会図書館デジタルコレクション
「朝日日本歴史人物事典 赤松則村・池田輝政・千姫」朝日新聞出版
「日本大百科全書(ニッポニカ) 黒田氏」小学館

2025年03月現在

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