竹田城跡
JR播但線竹田駅の西、円山川左岸、標高約354mの古城山頂にある。この地は兵庫県のほぼ中央、但馬地方の南端にあり、但馬・丹波・播磨の三国の境に近く、播但道・山陰道が交差しており、交通の要衝となっている。竹田城の築城については、確かな記録は遺されていないが、但馬などの守護職にあった山名持豊*1(後に宗全と号す)が嘉吉の乱*2(1441(嘉吉元)年)において同地から赤松氏を排除したものの、その後も播磨を中心に再起を図る赤松氏との確執が続いたため、その戦いの拠点として配下の太田垣氏に造らせたと言われている。
太田垣氏は守護代として7代にわたり城主を務めたが、1569(永禄12)年ころから、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の攻勢を受け、1580(天正8)年に退城した。その後、1582(天正10)年に桑山重晴、1585(天正13)年に赤松広秀(斎村政広)が入城し、赤松広秀は石垣などを築造し城郭を整えた。しかし、赤松広秀は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、敗戦後、東軍に転じて鳥取城攻めに参加し、功を焦り城下を焼き払ったとしてその責めを問われ自刃させられた。これにより竹田城は廃城となった。同地は生野奉行(後に代官)の管理下に入り、江戸時代は宿場町として栄えた。
現在も天守台を中心に3方向に曲輪が伸び、南北400m、東西100mの規模を誇る。天守台や曲輪などの跡には野面積み*3の石垣がほぼ当時のまま完存しており、安土桃山時代における山城の城郭の縄張りがよくわかる遺構である。
城跡へのアクセスは、JR播但線竹田駅から観覧料料金所(入口)まで徒歩の場合は駅裏登山道で0.9km、表米神社登山道で1.2km、南登山道で2.1kmである。なお、竹田駅と、休憩施設や大きな駐車場がある「山城の郷」から、竹田城跡バス停まで循環バスの「天空バス」が出ており、竹田城跡バス停から城郭の北東端にある観覧料料金所(入口)までは1kmほどの道のりである。観覧ルートは料金所から大手門、三の丸、二の丸、本丸(天守台)、南二の丸、南千畳と巡り、城郭の南東端が出口となる一方通行である。城跡の観覧は有料。
太田垣氏は守護代として7代にわたり城主を務めたが、1569(永禄12)年ころから、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の攻勢を受け、1580(天正8)年に退城した。その後、1582(天正10)年に桑山重晴、1585(天正13)年に赤松広秀(斎村政広)が入城し、赤松広秀は石垣などを築造し城郭を整えた。しかし、赤松広秀は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、敗戦後、東軍に転じて鳥取城攻めに参加し、功を焦り城下を焼き払ったとしてその責めを問われ自刃させられた。これにより竹田城は廃城となった。同地は生野奉行(後に代官)の管理下に入り、江戸時代は宿場町として栄えた。
現在も天守台を中心に3方向に曲輪が伸び、南北400m、東西100mの規模を誇る。天守台や曲輪などの跡には野面積み*3の石垣がほぼ当時のまま完存しており、安土桃山時代における山城の城郭の縄張りがよくわかる遺構である。
城跡へのアクセスは、JR播但線竹田駅から観覧料料金所(入口)まで徒歩の場合は駅裏登山道で0.9km、表米神社登山道で1.2km、南登山道で2.1kmである。なお、竹田駅と、休憩施設や大きな駐車場がある「山城の郷」から、竹田城跡バス停まで循環バスの「天空バス」が出ており、竹田城跡バス停から城郭の北東端にある観覧料料金所(入口)までは1kmほどの道のりである。観覧ルートは料金所から大手門、三の丸、二の丸、本丸(天守台)、南二の丸、南千畳と巡り、城郭の南東端が出口となる一方通行である。城跡の観覧は有料。

みどころ
竹田城跡は、安土桃山時代の山城の遺構としてその威容をよく遺しており、山城で登城には一苦労するが、とくに野面積みの複雑な石垣の組み方は一見の価値がある。山城らしく、竹田の街や円山川の眺望も素晴らしく、また、細長い城郭(縄張り)なので、見る位置によって城郭の形が変化し、それに沿って積み上がった、原初的な石組みである野面積みの表情が多彩で興味深い。春には山上には30本ほどのサクラが花開き、石垣に映え美しい。大手門側の入口から出口までの観覧ルートは、相応にアップダウンもあり、とくに出口付近は急坂なので、30~60分の所要を見ておいた方がよい。また、天空バスは、「山城の郷」から乗車するのがもっとも早いが、循環バスのため、帰りは徒歩で下る方が円滑な場合が多い(「竹田城跡」バス停から「山城の郷」は1.3km、観覧ルート出口からは2.2km)。
同城の景観の素晴らしさは、なんといっても円山川から発生する川霧が雲海となって、まるで城跡が浮かんだようになる「天空の城」の光景だろう。この光景がみられるのは良く晴れて風が弱い日で、湿度が高く十分な放射冷却があり、前日の日中と当日の早朝の気温の差が大きいことなどの条件が揃った時だけだ。条件さえ揃えばどの季節でもみられる可能性はあるものの、9~11月、ことに晩秋に発生の確率が高いという。また、これを展望するのは、円山川の城跡の対岸の朝来山(標高約757m)の山腹にある「立雲峡」となる。「立雲峡」には第1展望台(標高約420m)から第2展望台(標高約350m)、第3展望台(標高約300m)まであり、もっとも高い位置ある第1展望台がベストビューポイントである。「立雲峡」駐車場までは竹田駅から2.7kmほどでタクシー利用がお勧め。駐車場から第1展望台までは徒歩約30分、第2、第3展望台までは同じく5~10分ほど。足回りは、ハイキングシューズやトレッキングシューズなどをお勧めする。環境整備協力金が必要。
同城の景観の素晴らしさは、なんといっても円山川から発生する川霧が雲海となって、まるで城跡が浮かんだようになる「天空の城」の光景だろう。この光景がみられるのは良く晴れて風が弱い日で、湿度が高く十分な放射冷却があり、前日の日中と当日の早朝の気温の差が大きいことなどの条件が揃った時だけだ。条件さえ揃えばどの季節でもみられる可能性はあるものの、9~11月、ことに晩秋に発生の確率が高いという。また、これを展望するのは、円山川の城跡の対岸の朝来山(標高約757m)の山腹にある「立雲峡」となる。「立雲峡」には第1展望台(標高約420m)から第2展望台(標高約350m)、第3展望台(標高約300m)まであり、もっとも高い位置ある第1展望台がベストビューポイントである。「立雲峡」駐車場までは竹田駅から2.7kmほどでタクシー利用がお勧め。駐車場から第1展望台までは徒歩約30分、第2、第3展望台までは同じく5~10分ほど。足回りは、ハイキングシューズやトレッキングシューズなどをお勧めする。環境整備協力金が必要。

補足情報
*1 山名持豊:1404~1473年。法号は宗全。1431(永享5)年に父親から但馬・備後・安芸・伊賀4カ国の守護職を継承。1441(嘉吉元)年に嘉吉の乱で赤松満祐が将軍足利義教を殺害したのに対し、持豊が満祐を滅ぼしたため、播磨・備前・美作が与えられ、強大な軍事・政治勢力となった。その後、やはり勢力を拡大した細川家と対立が激しくなり、応仁の乱へと発展した。
*2 嘉吉の乱:1441(嘉吉元)年、守護大名赤松満祐(あかまつみつすけ)が、室町幕府第6代将軍足利義教を暗殺したことにより勃発した騒動。室町幕府創設以来の功臣だった赤松を将軍足利義教が疎んじたのに反発し、義教を自邸に招いて謀殺した。やがて満祐も幕府軍に討たれ、一族とともに自刃した。
*3 野面積み:自然石や山から割り出した石材をほとんど加工せずに積み上げたもの。 近江(滋賀県)の石工技術集団といわれる穴太衆(あのうしゅう)により組み上げられたといわれている。
*2 嘉吉の乱:1441(嘉吉元)年、守護大名赤松満祐(あかまつみつすけ)が、室町幕府第6代将軍足利義教を暗殺したことにより勃発した騒動。室町幕府創設以来の功臣だった赤松を将軍足利義教が疎んじたのに反発し、義教を自邸に招いて謀殺した。やがて満祐も幕府軍に討たれ、一族とともに自刃した。
*3 野面積み:自然石や山から割り出した石材をほとんど加工せずに積み上げたもの。 近江(滋賀県)の石工技術集団といわれる穴太衆(あのうしゅう)により組み上げられたといわれている。
関連リンク | 竹田城跡公式ホームページ (朝来市)(WEBサイト) |
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参考文献 |
竹田城跡公式ホームページ (朝来市)(WEBサイト) 「平成30年度 竹田城跡遺構現状確認調査」現地説明会資料 竹田区 立雲峡(WEBサイト) 「朝日日本歴史人物事典 山名持豊」朝日新聞出版 |
2025年03月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。