観心寺かんしんじ

南海電車河内長野駅から南東へ3.5km。国道310号沿いの山間に建つ古刹。
 山門をくぐると、幅広い長い石段に導かれて国宝である金堂*1に着く。この金堂を中心に緩やかな傾斜を利用して建掛塔*2、霊宝館*3、講堂、訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)*4などの堂宇が配されている。南朝ゆかりの寺で、後村上天皇陵*5や楠木正成首塚*6があり、金堂に安置されている本尊である秘仏の如意輪観音坐像*7は国宝に指定されている。
 同寺の草創については、寺伝では8世紀初頭に役行者がこの地に開き、雲心寺と号したが、空海が815(弘仁6)年、七星如意輪観音を祀り、観心寺と寺号*8を改めたと伝えられている。なお、同寺に遺されている883(元慶7)年に書かれた国宝の『観心寺勘録縁起資財帳』*9には、825(天長2)年から空海の高弟実恵(じつえ)とその弟子真紹が堂宇の造営を始め、869(貞観11)年に定額寺(朝廷の保護を受けた寺のこと)となったことが記録されている。開創当時から朝廷の崇敬を得ていたが、とくに南朝系との関係が深く、後醍醐天皇は建武中興後、楠木正成に命じ、再建したのが現存する金堂とされている。また後村上天皇は金剛寺から遷幸され塔頭惣持院を行宮(あんぐう)*10にした。
 入山料有料。
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みどころ

司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで、観心寺の立地について「楠木正成の攻防戦の拠点として有名な千早村があり、嶮阻な山の中にするどく切れこんだ渓があり、山水をあつめて細川がときに滝のような勢いで流れている。その細川が麓に達しようとするあたりに観心寺がある。」と描写している。谷あいが若干緩み、開けてきたあたりに緑豊かな小高い山を背にして堂宇が建っている。その小山の中腹、右手が後村上天皇陵にあたる。
 山門をくぐると受付があり、そこで入山料を納めると、あとは自由に境内を散策できる。まずは、ゆったりとして緩やかな参道を登っていくと、そこに国宝の金堂が建つ。金堂の外観は屋根は勾配がゆるく、ゆったりしているが、妻は深く入っているので、その分、軒の出が深くなっており、軒裏の木組みの幾何学的な美しさが際立つ。右手にある建掛堂の素朴さとは対照的である。ぜひ、立ち寄りたいのは金堂左手奥の霊宝館。寺宝の平安期の仏像群など、草創期の密教文化の一端に触れることができる。境内に楠木正成の首塚や隣接して後村上天皇陵など南朝関連の史跡も多く、この山寺で追い詰められていく南朝方の想いが森閑とした境内と周囲の山々から伝わってくるような気配すら感じる。
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補足情報

*1 金堂:平安初期、南朝・正平年間(1345~1368年)の造営とされ、国宝。正面7間、側面7間で3間の向拝を付け、入母屋造、本瓦葺の堂々とした風格がある建物。和様、唐様、天竺様の手法を随所に取り入れた鎌倉時代初期の折衷様の代表的建築として知られ、その建築様式は観心寺様とも呼ばれている。内部は内陣と外陣に分かれ、内陣に真言密教寺院特有の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)板壁を立てている。
*2 建掛塔:1502(文亀2)年建立。金堂の向かって右に藁葺屋根の塔の初層しかない建物。桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、茅葺。楠木正成は三重塔を建造するつもりだったが、湊川で戦死し、完成をみなかったため建掛塔の名がある。国指定の重要文化財。
*3 霊宝館:仏像、楠木正成奉納の腹巻、鉄燈篭などを収蔵している。特に地蔵菩薩、十一面観音、聖観音各像は貞観彫刻の傑作。入山料にて拝観可能。
*4 訶梨帝母天堂(かりていもてんどう):金堂の東下に立つ当寺の鎮守社。一間社春日造で向拝に唐破風をのせた優雅な造りで桧皮葺。室町後期、1549(天正18)年の造営。国指定の重要文化財。
*5 後村上天皇陵:檜尾陵。1328(嘉暦3)~1368(南朝・正平23)年。後醍醐天皇の第7皇子で、南朝二代天皇。南北朝の戦乱のため、仮宮を転々と移動する行宮での宮廷生活を余儀なくされたびたびの戦闘にも加わったという。1359(正平14)年には観心寺を行宮としていた。和歌・書跡に優れ、琵琶・箏などにも通暁していたという。
*6 楠木正成首塚:同寺の塔頭中院は楠木家の菩提寺になっており、若年期に同寺の坊院に寄留し兵学なども学んだという。湊川で戦死した正成の首が開山堂の裏手に葬られている。明治維新の原動力となった天誅組が大和義挙にあたりこの首塚の前で結盟した。
*7 如意輪観音坐像:金堂の本尊で寺伝によれば七星如意輪観音という。像高109cmの木心乾漆像。宝珠や数珠、転法輪、蓮華などを持ち、一手を頬に軽くふれた6本の手、右膝を立て膝した姿であるが、白土を施した白く豊かな体躯によく調和している。切れ長で伏目がちの目、鼻梁のとおった鼻、朱い小さな唇は森厳な中にも官能美を示していると評される。長年秘仏だったため切金文様や肉身の彩色は鮮やか。台座・光背も造像当初のもので、平安時代初期密教彫刻の白眉と讃えられている。例年、4月17日、18日のみ公開。
*8 寺号:心を観じるという意味で観心寺と名付けられた。今でも境内の七星を祭る星塚が7ヶ所あり、年の始めにこれらの塚を巡るとその年の厄除けになるといわれる。
*9 観心寺勘録縁起資財帳:883(元慶7)年に作成された寺の財産目録。当時の寺の状況がよく分かる史料として国宝に指定。なお、観心寺の創建年次について、「天長ニ(825)年」と同資財帳にはあるが、同時に記載されている干支は「丙午」となっており、これは天長三(826)年にあたる。同時期の他の文献では「天長四(827)年」とするものもある。
また、これとは別の縁起として837(承和4)年の「観心寺縁起実録帳」が遺されおり、同寺の縁起と空海との関係などが記載されているが、後代に作成されたものとする見方が有力であるが、こちらも国指定の重要文化財に指定されている。
*10 行宮:天皇が行幸する際に設けられる仮官のことで行在所とも言われる。後村上天皇の観心寺を行宮としたことについては「太平記」では、天野山金剛寺(河内長野市)を皇居にしていたが、「今の皇居は餘にあさまなる(浅まなる・粗末な)處にて候へば、金剛山の奥。觀心寺と申し候ふ處へ、御座を移し進(まい)らせ候らひて」とし、「觀心寺といふ深山なれば、左右なく敵の近つくべき所」ではないとも記している。