北野天満宮
嵐電北野白梅町駅から一の鳥居まで徒歩7分、市バス北野天満宮からは徒歩2分。平安時代前期の学者であり、政治家であった菅原道真を祀る。道真は35歳で文章博士に任じられた後、右大臣にまで昇ったものの、左大臣藤原時平の讒言により、大宰権帥に左遷され、903(延喜3)年に大宰府で死去。その後、時平や皇太子の病死、天変地異の続発、さらには御所への落雷による貴族数人の死など災厄が相次いだため、これを道真の怨霊によるものとして、947(天暦元)年、右京七条に住む多治比文子(あやこ)らが北野に小祠を営んで祀ったのが社の起こりと伝える。959(天徳3)年には藤原師輔(もろすけ)が社殿を造営。のちには御霊信仰に加えて、学問の神様としての天神信仰*が広まり、全国に1万2,000社を超える天満宮・天神社で「天神さま」として親しまれてきた。
現在の社殿は1607(慶長12)年に豊臣秀頼が、片桐且元を普請奉行として造営したもの。国宝の大規模な本殿・拝殿*を中心に、中門(三光門)*や回廊、本殿・拝殿を囲む透塀など重要文化財指定の社殿が立ち並ぶ。社宝には神社の由緒を描いた国宝「北野天神縁起絵巻*」や太刀「鬼切丸*」などを伝える。境内には天神の使いという多くの牛の像*が置かれている。
楼門の南、表参道の松林一帯は豊臣秀吉が北野大茶会*を催したところ。境内の西には秀吉が築いた御土居(おどい)*跡がよく残っている。毎月25日の縁日「天神さん」は、多くの人でにぎわう。境内の東門に続く東参道には、室町時代に始まる花街・上七軒(かみしちけん)*のお茶屋がいまも並ぶ。
現在の社殿は1607(慶長12)年に豊臣秀頼が、片桐且元を普請奉行として造営したもの。国宝の大規模な本殿・拝殿*を中心に、中門(三光門)*や回廊、本殿・拝殿を囲む透塀など重要文化財指定の社殿が立ち並ぶ。社宝には神社の由緒を描いた国宝「北野天神縁起絵巻*」や太刀「鬼切丸*」などを伝える。境内には天神の使いという多くの牛の像*が置かれている。
楼門の南、表参道の松林一帯は豊臣秀吉が北野大茶会*を催したところ。境内の西には秀吉が築いた御土居(おどい)*跡がよく残っている。毎月25日の縁日「天神さん」は、多くの人でにぎわう。境内の東門に続く東参道には、室町時代に始まる花街・上七軒(かみしちけん)*のお茶屋がいまも並ぶ。

みどころ
今出川通に面して立つ石鳥居は高さ11m余。三の鳥居手前西側にある伴氏社鳥居は、柱の根元に蓮弁が彫られているのが珍しい。楼門の内側左手には1700(元禄13)年に建てられた絵馬所があり、その先の豪華な中門から左右に回廊が延びる。門内右手には北野型といわれる六角形の石灯籠*がある。正面には南面して、拝殿と本殿を石の間でつないだ八棟造の大建築が立つ。拝殿の東西両側には楽の間が接続している。中門・透塀・後門・廻廊と、少し離れた東門は重要文化財。「北野天神縁起絵巻」、約100振の刀剣などの美術工芸品や文書類は、楼門を入った右手の宝物殿*に収蔵する。
境内には約50種1,500本の梅が咲き、このうち約1,000本は梅苑にある。本殿前には道真ゆかりの飛梅も。2月25日の道真の祥月命日の梅花祭には、道真が愛でた紅白の梅花を神前に供え、近くの上七軒の芸妓による野点も行われる。御土居のもみじ苑には約350本のモミジがある。10月1~4日の北野祭(きたのさい)では、五穀豊穣を感謝し、「ずいき神輿」の屋根を野菜や乾物で飾り付ける。
境内には約50種1,500本の梅が咲き、このうち約1,000本は梅苑にある。本殿前には道真ゆかりの飛梅も。2月25日の道真の祥月命日の梅花祭には、道真が愛でた紅白の梅花を神前に供え、近くの上七軒の芸妓による野点も行われる。御土居のもみじ苑には約350本のモミジがある。10月1~4日の北野祭(きたのさい)では、五穀豊穣を感謝し、「ずいき神輿」の屋根を野菜や乾物で飾り付ける。

補足情報
*天神信仰:鎌倉時代になると、学問・書の守り神としての霊験が広まり、室町時代には、五山禅僧の間に渡唐天神として中国風の思想も加わり、菅公と梅との結びつきもここに由来する。江戸時代には寺子屋教育の普及とともに、学問の神様として庶民に浸透した。
*本殿・拝殿:本殿は正面5間、側面4間、単層の入母屋造、檜皮葺。その前に立つ正面7間、側面3間、単層の入母屋造の拝殿を石の間で連絡する権現造。拝殿の東西両側には楽の間が配置されている。屋根の構造が複雑なことから俗に八棟(やつむね)造ともいわれる。この形式は日光東照宮に継承されたことから、権現造の本源とされている。
*中門(三光門):単層、入母屋造、檜皮葺の四脚門。前後に千鳥破風、その下に軒唐破風を設ける。唐破風下には豪華な彫刻を施し、ことに中央の冠木(かぶき)の上にある唐獅子の蟇股(かえるまた)はみごと。背面に三日月・太陽の彫刻と、真上にかがやく星から三光門ともいう。
*北野天神縁起絵巻:菅原道真の生涯と死後のたたり、さらに日蔵上人の六道巡りを描く。強い描線と鮮やかな彩色で動きのある構図を展開している。1219(承久元)年の詞書があり、承久本といわれる。鎌倉時代の絵巻物中の代表作。未完本で9巻のうち下絵1巻。
*鬼切丸:源満仲が鍛えさせたと伝える源氏の重宝。「髭切」ともいう。渡辺綱が「鬼」を切ったため、「鬼切安綱」とも。重要文化財。
*牛の像:道真が丑年生まれであること、また、死去に際し「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言により、亡骸を運ぶ車を曳く牛が動かなくなった地に葬ったことから、牛を神使とするといわれる。
*北野大茶会:1587(天正15)年10月1日、秀吉は「貴賤に寄らず、貧富に拘らず、望(のぞみ)の面々」に広く参加を呼びかけた。が、初日、集まったのは1,000人程度。10日間を予定していた茶会は、なぜか1日でやめてしまった。
*御土居:1587(天正15)年、秀吉が京都の市区整理を行ったとき、洛中と洛外を区分するために築いた土堤。外側に濠を設け、7カ所の出入り口に番所を置き、治安の維持と水害防止を図った。全長約22.5kmにおよび、土堤の高さ5~12尺(約1.5~3.6m)、濠は幅2~10間(約3.6~18m)であった。
*上七軒:室町時代に北野天満宮再建の残り木で7軒の水茶屋を建てたのが起こりと伝える。江戸時代は天満宮の参詣者でおおいに栄えた。石畳の両側にしっとりした佇まいの町家が並び、夕暮れ時、提灯に灯が点ると一層風情が増す。
*石燈籠:渡辺綱の寄進と伝える鎌倉時代の作。
*宝物殿:毎月25日、春、秋などに開館。展示内容は変わるので、国宝絵巻や鬼切丸展示時期は未定。
*本殿・拝殿:本殿は正面5間、側面4間、単層の入母屋造、檜皮葺。その前に立つ正面7間、側面3間、単層の入母屋造の拝殿を石の間で連絡する権現造。拝殿の東西両側には楽の間が配置されている。屋根の構造が複雑なことから俗に八棟(やつむね)造ともいわれる。この形式は日光東照宮に継承されたことから、権現造の本源とされている。
*中門(三光門):単層、入母屋造、檜皮葺の四脚門。前後に千鳥破風、その下に軒唐破風を設ける。唐破風下には豪華な彫刻を施し、ことに中央の冠木(かぶき)の上にある唐獅子の蟇股(かえるまた)はみごと。背面に三日月・太陽の彫刻と、真上にかがやく星から三光門ともいう。
*北野天神縁起絵巻:菅原道真の生涯と死後のたたり、さらに日蔵上人の六道巡りを描く。強い描線と鮮やかな彩色で動きのある構図を展開している。1219(承久元)年の詞書があり、承久本といわれる。鎌倉時代の絵巻物中の代表作。未完本で9巻のうち下絵1巻。
*鬼切丸:源満仲が鍛えさせたと伝える源氏の重宝。「髭切」ともいう。渡辺綱が「鬼」を切ったため、「鬼切安綱」とも。重要文化財。
*牛の像:道真が丑年生まれであること、また、死去に際し「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言により、亡骸を運ぶ車を曳く牛が動かなくなった地に葬ったことから、牛を神使とするといわれる。
*北野大茶会:1587(天正15)年10月1日、秀吉は「貴賤に寄らず、貧富に拘らず、望(のぞみ)の面々」に広く参加を呼びかけた。が、初日、集まったのは1,000人程度。10日間を予定していた茶会は、なぜか1日でやめてしまった。
*御土居:1587(天正15)年、秀吉が京都の市区整理を行ったとき、洛中と洛外を区分するために築いた土堤。外側に濠を設け、7カ所の出入り口に番所を置き、治安の維持と水害防止を図った。全長約22.5kmにおよび、土堤の高さ5~12尺(約1.5~3.6m)、濠は幅2~10間(約3.6~18m)であった。
*上七軒:室町時代に北野天満宮再建の残り木で7軒の水茶屋を建てたのが起こりと伝える。江戸時代は天満宮の参詣者でおおいに栄えた。石畳の両側にしっとりした佇まいの町家が並び、夕暮れ時、提灯に灯が点ると一層風情が増す。
*石燈籠:渡辺綱の寄進と伝える鎌倉時代の作。
*宝物殿:毎月25日、春、秋などに開館。展示内容は変わるので、国宝絵巻や鬼切丸展示時期は未定。
関連リンク | 北野天満宮(WEBサイト) |
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参考文献 |
北野天満宮(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 上」山川出版社 「利休と秀吉のものがたり」ノジュール 2022年1月号 11p JTBパブリッシング |
2025年05月現在
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