建仁寺けんにんじ

祇園の繁華街の南。花街宮川町にも隣接する、臨済宗建仁寺派の大本山。1202(建仁2)年、源頼家の帰依を受けた栄西*が、中国(宋)の百丈山(ひゃくじょうざん)にならって建立した寺で、寺名は創建時の年号からつけられた。当初は、天台・密教・禅の三宗兼学の道場だったが、第十一世蘭渓道隆のときから、臨済宗の寺院となり、足利義満が京都五山*の制度を設けると、その第3位となった。のちにしばしば兵火にあって焼失したが、1596(慶長元)年に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)*によって再興された。現在は、方丈と茶室東陽坊*、勅使門*、三門、法堂、浴室、鐘楼*などがあり、塔頭14カ寺が立ち並ぶ。
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みどころ

境内北部の方丈は安芸(広島県)安国寺の方丈を1599(慶長4)年に移築したもの。正面11間、側面8間、単層、入母屋造で、屋根は杮(こけら)葺。大雄苑(だいおうえん)*、潮音庭*、面白い名の〇△▢乃庭(まるさんかくしかくのにわ)*などの枯山水庭園が楽しめる。俵屋宗達筆といわれる風神雷神図屏風*の複製が本坊にある。法堂の天井には、小泉淳作による双龍が描かれている。塔頭*は通常非公開のところが多い。
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補足情報

*栄西:開山の栄西は、寺伝では「ようさい」というが、一般には「えいさい」と読まれている。備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として、1141(永治元)年に生まれた。比叡山で天台密教を修めたのち、2度入宋を果たし、日本に禅を伝えた。茶種を持ち帰って栽培を奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」として知られている。 
*京都五山:中国南宋時代の五山官寺制度が鎌倉時代に伝わり、鎌倉五山が誕生。のちに足利氏が臨済宗寺院を統制するために京都五山を定めて最高の寺格を与え、その下に十刹、諸堂が列せられた。選定やその順位は何度か変遷し、最終的に南禅寺を五山の上位におき、1位天龍寺、2位相国寺、3位建仁寺、4位東福寺、5位万寿寺となった。
*安国寺恵瓊:?~1600年。安芸安国寺の僧。東福寺退耕庵に住む。本能寺の変の際、毛利方と秀吉軍の和解をさせたので、秀吉の信任を得た。しかし関ヶ原の戦いで石田方について負けたため、捕らえられて斬首された。建仁寺本坊中庭の隅に恵瓊首塚がある。
*茶室東陽坊:方丈の北にあり、秀吉の北野大茶会のとき東陽坊長盛の造った茶席を移築した草庵式二畳台目の席。壁には下地窓や大小の竹製の窓があり、明かりで華やかさと落ち着きを見せている。内部は通常非公開。左手の垣根は建仁寺垣。
*勅使門:山内南端の八坂通に面している。銅板葺、切妻造の四脚門で、応仁・文明の乱から逃れた唯一の建物。門扉に矢じりの跡があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれている。門の出入りはできない。
*鐘楼:法堂の東にあり、江戸初期の建立。鐘は、陀羅尼(だらに)の鐘とも呼ばれ、鴨川の釜ガ淵に沈んでいたのを栄西在世時に引きあげたものと伝える。もと源融の河原院にあったともいう。
*大雄苑:方丈の前庭。巨石に苔、石塔、赤松が、白川砂の砂紋のうえに配されている。
*潮音庭:本坊中庭にある。中央に三尊石を立て、その東側に平らな座禅石を据える。枯淡な禅庭周縁には数本のモミジを植えてある。
*〇△▢乃庭:宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想・「地水火風」を、地▢、火△、水〇で表したという。
*風神雷神図屏風:金地屏風の右隻に風神、左隻に雷神が描かれている。空間を生かした構図は奇技で、豊かな装飾性と躍動感が感じられる。建仁寺にあるのは高精細デジタル複製で、国宝の実物は京都国立博物館に寄託されている。
*塔頭:見どころの多い塔頭のうち、いくつかを紹介する。
正伝永源院:通常非公開。もとは織田有楽斎が再興した正伝寺で、愛知県犬山市にある有楽斎の茶室如庵(国宝)と書院(重文)は、正伝寺にあったもの。1996(平成8)年に如庵が復元され、2021(令和3)年には廃仏毀釈で流出した武野紹鷗(じょうおう)の塔が返還された。
両足院:枯山水と池泉回遊式庭園を持つ。有名なハンゲショウの時期などに特別公開。
禅居庵:勅使門の西。摩利支天堂に7頭のイノシシを従えた摩利支天を祀る。
霊洞院(僧堂):国名勝の江戸中期庭園があるが、修行道場のため非公開。
関連リンク 建仁寺(WEBサイト)
参考文献 建仁寺(WEBサイト)
「建仁寺」建仁寺
「京都府の歴史散歩 中」山川出版社

2025年05月現在

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