醍醐寺
世界文化遺産。地下鉄東西線醍醐駅から東へ徒歩約10分で醍醐寺の総門に至る。山科盆地の南東に位置する醍醐山とその麓付近を醍醐と呼び、伽藍は山上の上(かみ)醍醐と山麓の下(しも)醍醐に分かれる。真言宗醍醐寺派の総本山。本尊は薬師如来。山上山下に80余棟の堂塔伽藍が甍を連ね、江戸時代以来の修験道当山派本拠地としての森厳な雰囲気に満ちている。五重塔や金堂・薬師堂・清瀧宮拝殿など多くの建物が国宝・重要文化財に指定されているほか、彫刻・絵画など密教美術の宝庫で、十数万点に及ぶ寺宝を所蔵する。豊臣秀吉が北政所や淀殿、女房衆など1,300人を招いた醍醐の花見*といわれる盛大な花見を開いたことで知られる桜の名所。
874(貞観16)年、聖宝(理源大師)が横尾明神の霊示により笠取山に霊泉「醍醐水」を見つけて草庵を結び、准胝(じゅんてい)観音と如意輪観音を祀ったのが始まりとされる。907(延喜7)年には醍醐天皇の御願寺となり、山上に薬師堂、山麓に金堂、五重塔などの諸堂が建立され、大伽藍を誇るところとなった。1115(永久3)年には子院として灌頂院(三宝院)が建立された。
応仁・文明の乱の兵火で下醍醐は五重塔を残してほとんどが焼失、上醍醐も荒廃するが、秀吉の援助のもとに第80代座主の義演(ぎえん)僧正*が再興。いまも山上と山下に広大な境内が広がる。
874(貞観16)年、聖宝(理源大師)が横尾明神の霊示により笠取山に霊泉「醍醐水」を見つけて草庵を結び、准胝(じゅんてい)観音と如意輪観音を祀ったのが始まりとされる。907(延喜7)年には醍醐天皇の御願寺となり、山上に薬師堂、山麓に金堂、五重塔などの諸堂が建立され、大伽藍を誇るところとなった。1115(永久3)年には子院として灌頂院(三宝院)が建立された。
応仁・文明の乱の兵火で下醍醐は五重塔を残してほとんどが焼失、上醍醐も荒廃するが、秀吉の援助のもとに第80代座主の義演(ぎえん)僧正*が再興。いまも山上と山下に広大な境内が広がる。

みどころ
総門から境内に入ると、左手に三宝院*があり、表門右の唐門(国宝)は、勅使門。表書院(国宝)の南には、三宝院庭園(特別史跡・特別名勝)*が広がっている。東側には醍醐の花見時に設けた花見御殿を移築されたと伝わる茅葺の純浄観(重要文化財)があり、そのさらに東に本堂(弥勒堂)がある。純浄観の北の奥宸殿には、醍醐棚と呼ばれる名高い違い棚がある。
総門と仁王門(西大門)の間に延びる参道「桜馬場」は、三宝院から南へ延びる参道とともに桜が壮観。豊臣秀頼再建の仁王門を越えて進むと左手に金堂(国宝)*、右手先に五重塔(国宝)*がそびえる。五重塔西側に立つ清瀧宮本殿(重要文化財)は1517(永正14)年に再建された。金堂の東側に不動堂、祖師堂、観音堂など多くの堂舎が点在し、女人堂をすぎると上醍醐へと上っていく。三宝院と参道を挟んで南側の霊宝館*には、醍醐寺に伝わる国宝・重要文化財を含む膨大な数の貴重な寺宝が収蔵され、春と秋に特別公開が行われる。
上醍醐に着くとまず懸造の清瀧宮拝殿(国宝)、そのすぐ横に醍醐水の小舎が立つ。西国三十三所観音霊場11番札所の准胝(じゅんてい)堂もこのエリアにあったが、2008(平成20)年落雷で焼失して今は下醍醐の観音堂を札所としている。この先、薬師堂(国宝)*、五大堂が点在し、山頂付近には懸造の如意輪堂(
(重要文化財)、開山堂(重要文化財)がある。
総門と仁王門(西大門)の間に延びる参道「桜馬場」は、三宝院から南へ延びる参道とともに桜が壮観。豊臣秀頼再建の仁王門を越えて進むと左手に金堂(国宝)*、右手先に五重塔(国宝)*がそびえる。五重塔西側に立つ清瀧宮本殿(重要文化財)は1517(永正14)年に再建された。金堂の東側に不動堂、祖師堂、観音堂など多くの堂舎が点在し、女人堂をすぎると上醍醐へと上っていく。三宝院と参道を挟んで南側の霊宝館*には、醍醐寺に伝わる国宝・重要文化財を含む膨大な数の貴重な寺宝が収蔵され、春と秋に特別公開が行われる。
上醍醐に着くとまず懸造の清瀧宮拝殿(国宝)、そのすぐ横に醍醐水の小舎が立つ。西国三十三所観音霊場11番札所の准胝(じゅんてい)堂もこのエリアにあったが、2008(平成20)年落雷で焼失して今は下醍醐の観音堂を札所としている。この先、薬師堂(国宝)*、五大堂が点在し、山頂付近には懸造の如意輪堂(
(重要文化財)、開山堂(重要文化財)がある。

補足情報
*醍醐の花見:1598(慶長3)年秀吉は畿内から約700本の桜を取り寄せ、山の中腹に至るまで趣向を凝らした茶室を設けて花見を催した。毎年4月第2日曜には、「醍醐の花見」の故事にならい「豊太閤花見行列」が催される。
*義演僧正:1558~1626年。醍醐寺80代座主。朝野の崇敬を受け、特に秀吉の帰依を得た。「義演准后日記」(重要文化財)を残す。日記には醍醐寺や仏教界、社会動向が詳しく記され、戦乱によって荒廃していた醍醐寺が、豊臣秀吉らの支援により復興していく様子が事細かに記されている。
*三宝院:醍醐寺歴代座主の居住する本坊的な寺院。表書院の上段・中段の障壁画は、長谷川等伯一派の作といわれる。下段の襖絵は、葵の間とともに江戸時代の石田幽汀作とされる。本堂には快慶作の本尊弥勒菩薩坐像(重要文化財)が安置される。
*三宝院庭園:秀吉が花見を契機に、みずから縄張りしたと伝える。鶴亀の島を池中央に設け、対岸には秀吉が聚楽第から運ばせたという天下の名石「藤戸石」を配した池泉庭園で、桃山時代らしい華やかさを漂わせる。池東南隅の豪壮な三段の滝もみどころ。
*金堂:桁行7間・梁間5間、入母屋造・本瓦葺建築。堂内には薬師如来像及び両脇侍像(重要文化財)が安置されている。毎年2月23日の五大力尊仁王会(五大力さん)は、堂前の広場で大きな餅を抱え上げて力を奉納する「餅上げ力奉納」が行われることでも知られる。
*五重塔:平安創建時の姿を残す唯一の建物。京都府内では最古の木造建造物。醍醐天皇の冥福を祈り、朱雀天皇が着手し、村上天皇の951(天暦5)年に完成をみた。初層に対する最上層の幅の割合を示す逓減率が大きく、安定感がある。高さ約38m、上部の相輪高が約13mと全体の1/3を占めるが、見上げると絶妙な均整の取れた姿を見せる。両界曼荼羅図と真言八祖などの初重壁画18面も国宝だが、通常非公開。
*霊宝館:上醍醐薬師堂の本尊である国宝薬師三尊像、五大堂に祀られていた木造五大明王像(重要文化財)をはじめとする寺宝の保存と公開を兼ねる。。
*薬師堂:1121(保安2)年再建の、平安建築の特徴を示すすっきりした印象の堂。
*義演僧正:1558~1626年。醍醐寺80代座主。朝野の崇敬を受け、特に秀吉の帰依を得た。「義演准后日記」(重要文化財)を残す。日記には醍醐寺や仏教界、社会動向が詳しく記され、戦乱によって荒廃していた醍醐寺が、豊臣秀吉らの支援により復興していく様子が事細かに記されている。
*三宝院:醍醐寺歴代座主の居住する本坊的な寺院。表書院の上段・中段の障壁画は、長谷川等伯一派の作といわれる。下段の襖絵は、葵の間とともに江戸時代の石田幽汀作とされる。本堂には快慶作の本尊弥勒菩薩坐像(重要文化財)が安置される。
*三宝院庭園:秀吉が花見を契機に、みずから縄張りしたと伝える。鶴亀の島を池中央に設け、対岸には秀吉が聚楽第から運ばせたという天下の名石「藤戸石」を配した池泉庭園で、桃山時代らしい華やかさを漂わせる。池東南隅の豪壮な三段の滝もみどころ。
*金堂:桁行7間・梁間5間、入母屋造・本瓦葺建築。堂内には薬師如来像及び両脇侍像(重要文化財)が安置されている。毎年2月23日の五大力尊仁王会(五大力さん)は、堂前の広場で大きな餅を抱え上げて力を奉納する「餅上げ力奉納」が行われることでも知られる。
*五重塔:平安創建時の姿を残す唯一の建物。京都府内では最古の木造建造物。醍醐天皇の冥福を祈り、朱雀天皇が着手し、村上天皇の951(天暦5)年に完成をみた。初層に対する最上層の幅の割合を示す逓減率が大きく、安定感がある。高さ約38m、上部の相輪高が約13mと全体の1/3を占めるが、見上げると絶妙な均整の取れた姿を見せる。両界曼荼羅図と真言八祖などの初重壁画18面も国宝だが、通常非公開。
*霊宝館:上醍醐薬師堂の本尊である国宝薬師三尊像、五大堂に祀られていた木造五大明王像(重要文化財)をはじめとする寺宝の保存と公開を兼ねる。。
*薬師堂:1121(保安2)年再建の、平安建築の特徴を示すすっきりした印象の堂。
関連リンク | 醍醐寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
醍醐寺(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 中」山川出版社 |
2025年05月現在
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