西本願寺
通称を西本願寺、正式名称を龍谷山本願寺という、浄土真宗本願寺派*の本山である。親しみを込めて「お西さん」とも呼ばれる。堀川通と七条通の交差点の北西側に位置する寺地は広大で、東西約330m、南北約290mにおよぶ。桃山文化を代表する建造物や庭園を今に伝え、世界遺産にも登録されている。
1272(文永9)年、親鸞聖人の末娘の覚信尼と門弟たちが東山の大谷に六角の廟堂を建て、親鸞聖人の遺骨と影像を安置したのがこの寺の起こりである。その後、第3代覚如上人*のときに本願寺と称した。室町時代には第8代蓮如上人*が出て宗門はおおいに栄えたが、他宗の反目を買い、1465(寛正6)年、大谷本願寺は比叡山衆徒に破壊された。その後蓮如上人は近江・北陸に布教して勢力を回復し、京都山科(やましな)に本願寺を再建した。第10代証如上人の1532(天文元)年、山科本願寺は六角定頼や日蓮宗徒の焼討ちで炎上、大坂の石山に移る。ここで寺域を広げ大勢力に発展するが、第11代顕如上人のときに、織田信長と対立し、11年間におよぶ石山合戦*となった。1580(天正8)年に織田信長と和睦し、以後各地を転々とするが、1591(天正19年)豊臣秀吉の寺地寄進により現在地に寺基を定めた。
1592(文録元)年、顕如上人が急逝したのち、後継者をめぐる問題が起こり、1602(慶長7)年に本願寺は東と西に分立した。
西本願寺の伽藍の整備は、この地に移転した直後から行われ、大震災や火災の後もすぐに復興に着手しており、1628(寛永5)年には、書院(対面所及び白書院、国宝)、1636(寛永13)年には御影堂(国宝)再建。1657(明暦3)年には黒書院及び伝廊(国宝)が整備され、1760(宝暦10)年に阿弥陀堂(国宝)が再建された。
1272(文永9)年、親鸞聖人の末娘の覚信尼と門弟たちが東山の大谷に六角の廟堂を建て、親鸞聖人の遺骨と影像を安置したのがこの寺の起こりである。その後、第3代覚如上人*のときに本願寺と称した。室町時代には第8代蓮如上人*が出て宗門はおおいに栄えたが、他宗の反目を買い、1465(寛正6)年、大谷本願寺は比叡山衆徒に破壊された。その後蓮如上人は近江・北陸に布教して勢力を回復し、京都山科(やましな)に本願寺を再建した。第10代証如上人の1532(天文元)年、山科本願寺は六角定頼や日蓮宗徒の焼討ちで炎上、大坂の石山に移る。ここで寺域を広げ大勢力に発展するが、第11代顕如上人のときに、織田信長と対立し、11年間におよぶ石山合戦*となった。1580(天正8)年に織田信長と和睦し、以後各地を転々とするが、1591(天正19年)豊臣秀吉の寺地寄進により現在地に寺基を定めた。
1592(文録元)年、顕如上人が急逝したのち、後継者をめぐる問題が起こり、1602(慶長7)年に本願寺は東と西に分立した。
西本願寺の伽藍の整備は、この地に移転した直後から行われ、大震災や火災の後もすぐに復興に着手しており、1628(寛永5)年には、書院(対面所及び白書院、国宝)、1636(寛永13)年には御影堂(国宝)再建。1657(明暦3)年には黒書院及び伝廊(国宝)が整備され、1760(宝暦10)年に阿弥陀堂(国宝)が再建された。

みどころ
広大な西本願寺を丁寧にみるために、各建物の配置を頭の中に入れよう。
御影堂門をくぐると、正面の大きな建物が御影堂*、その右側の大きな建物が阿弥陀堂*(本堂)である。御影堂と阿弥陀堂は渡廊下でつながっており、自由に行き来ができる。阿弥陀堂門を出て堀川通を北へ向かうと、幕末に新選組が屯所を構えた建物の一部である太鼓楼がある。堀川通を引き返し北小路通を西へ入ると、大唐破風を付けた極彩色の唐門(国宝)*が立つ。御影堂と唐門のあいだに位置するのが、通常非公開の書院*。桃山文化の粋を集めた文化財の宝庫で、対面所(国宝)、白書院(国宝)をはじめとする各部屋は、狩野派の絵師による金碧障壁画や緻密な欄間彫刻などで華麗に彩られている。書院の南側には南能舞台(重要文化財)*、書院の北側には、現存する最古の能舞台である北能舞台(国宝)*があり、その奥には黒書院(国宝)*が控える。書院の東には枯山水の名庭・虎渓の庭*が広がる。書院の東、境内の南東隅に位置する飛雲閣(国宝)*は、豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構との伝承もある美しい3層楼閣建築。飛雲閣と渡り廊下で結ばれている黄鶴台*も見逃せない。
書院、飛雲閣ともに通常非公開だが、親鸞聖人の月命日である毎月16日の「Shinran's DAY」などに特別公開を実施している。
御影堂門をくぐると、正面の大きな建物が御影堂*、その右側の大きな建物が阿弥陀堂*(本堂)である。御影堂と阿弥陀堂は渡廊下でつながっており、自由に行き来ができる。阿弥陀堂門を出て堀川通を北へ向かうと、幕末に新選組が屯所を構えた建物の一部である太鼓楼がある。堀川通を引き返し北小路通を西へ入ると、大唐破風を付けた極彩色の唐門(国宝)*が立つ。御影堂と唐門のあいだに位置するのが、通常非公開の書院*。桃山文化の粋を集めた文化財の宝庫で、対面所(国宝)、白書院(国宝)をはじめとする各部屋は、狩野派の絵師による金碧障壁画や緻密な欄間彫刻などで華麗に彩られている。書院の南側には南能舞台(重要文化財)*、書院の北側には、現存する最古の能舞台である北能舞台(国宝)*があり、その奥には黒書院(国宝)*が控える。書院の東には枯山水の名庭・虎渓の庭*が広がる。書院の東、境内の南東隅に位置する飛雲閣(国宝)*は、豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構との伝承もある美しい3層楼閣建築。飛雲閣と渡り廊下で結ばれている黄鶴台*も見逃せない。
書院、飛雲閣ともに通常非公開だが、親鸞聖人の月命日である毎月16日の「Shinran's DAY」などに特別公開を実施している。

補足情報
*浄土真宗本願寺派:本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派は「本願を信じ、南無阿弥陀仏を称えるものは誰でも、命を終えたあとに浄土に生まれ、仏さまとなる」という阿弥陀如来の願いを大切にする宗門。浄土真宗本願寺派の寺院は、全国に約一万ヵ寺あり、海外には北米・カナダ・ハワイ・南米に開教区がある。
*覚如上人:1270~1351。親鸞聖人の末娘覚信尼の孫。大谷廟堂の留守職を世襲職と定め、親鸞聖人を第1代に数えて、自らは第3代となった。教団の強化に努める。
*蓮如上人:1415~1499。本願寺第8代。宗派再興の志を抱き、大谷本願寺が破壊された後、近江堅田に移り、さらに越前吉崎に転じて北陸一帯に布教を行うなど、本願寺隆盛の基礎を築いた。
*石山合戦:戦国時代に一大勢力に発展した石山本願寺は、天下統一を目指す織田信長と鋭く対立。11年間にわたり抗争を続けたが、1580(天正8)年に信長と和議を結んだ。
*御影堂(ごえいどう):1636(寛永13)年の再建で、西本願寺の中心となる建物である。単層、入母屋造、本瓦葺、高さ29m、東西48m、南北62m。正面7間の柱はすべて扉を立てて出入りを自由にし、堂内は外陣を内陣よりも広くとり、一度に1,000人以上が参拝できるという。正面中央に安置される親鸞聖人の木像は、聖人の荼毘(だび)の灰を漆にまぜて塗ったものといわれる。
*阿弥陀堂:御影堂の北にある西本願寺の本堂。1760(宝暦10)年の再建で単層、入母屋造、本瓦葺、高さ25m、東西42m、南北45m。本尊に阿弥陀如来の木像、両余間に法然上人と聖徳太子の影像を安置する。
*唐門:境内の南側、北小路通に面している。入母屋造、桧皮葺。前後に雄大な唐破風を付けた四脚門で伏見城の遺構ともいわれる。いたるところを精巧な彫刻と飾り金具で埋められながら華美に流れず、落ち着いた風格がある。両側の透彫は中国の許由(きょゆ)と張良(ちょうりょう)の故事をモチーフにしている。その美しさに日の暮れるのも忘れて見とれてしまうということから「日暮らし門」ともよばれている。
*書院:南能舞台の北にある。単層、入母屋造、本瓦葺、正面18間、側面14間の大建築で現存する最大の書院造である。桃山時代の建築で伏見城の遺構とされてきたが異説もあり、建立について不明の点が多い。内部は対面所と白書院および付属の諸室に分かれている。対面所は203畳敷きの大広間で、門主が公式に門徒に面接するところ。上段と下段に分かれ、その境の欄間に、雲中飛鴻(うんちゅうひこう)の豪華な透彫があるため、「鴻(こう)の間」とも呼ぶ。上段の間には草童遊戯図、商山四皓(しょうざんしこう)図、武帝会西王母(ぶていかいせいおうぼ)図など、中国の事跡を描いた貼付絵で飾られる。下段の間は左右の襖に巨大な老松と紅梅を中心にした豪放な花鳥図があり、いずれも金地に濃彩で描かれている。このほか、天井から金具まですべてに装飾が施され、建築に、絵画に、彫刻に、絢爛豪華な桃山文化の粋が集められた部屋といえる。白書院は対面所上段の間の後方にあたる。上段の間(紫明の間)・二の間・三の間(孔雀の間)に分かれる。対面所より規模は小さいが、3室を仕切る2つの欄間に透彫があり、金地に濃彩の絵で飾られている。北側の狭屋(さや)小壁の「武蔵野図」は月に秋草を描いた繊細な筆致で、他の障壁画にくらべて異色である。白書院の東には装束の間・西には菊の間・雁の間・雀の間が続く。書院の障壁画は、狩野派の絵師・渡辺了慶とその一派の筆になるもので、小室の雀の間は円山応挙門人の円山応瑞とも吉村孝敬の筆ともいわれている。
*南能舞台:単層、切妻造、檜皮葺、桃山時代の能舞台建築の特色をよく表わしている。
*北能舞台:白書院の北にある。単層、前面入母屋造、背面切妻造、檜皮葺、1581(天正9)年建立の墨書がある現存する最古の能舞台で古式をよく伝えている。
*黒書院:白書院と複廊形式の伝廊でつながる。重層、寄棟造、柿葺、江戸時代初期の住宅風書院建築で、書院造に数寄屋造風の趣向を入れている。非公開。
*虎渓の庭:特別名勝・史跡。対面所の東側にある。池泉式枯山水庭園で、おびただしい石組(いしぐみ)をもつ。東北の築山に三尊石の巨石で枯滝をつくり、流れ出る渓流が中央で白砂の池となり、鶴島・亀島を浮べ、切石と自然石で3個の石橋を架け、その間に多数の蘇鉄が植えられている。伏見城内の庭を移したといわれ、桃山時代の特色をよく伝えている。
*飛雲閣:境内の東南隅、滴翠園の池に浮かぶように建つ3層の楼閣。豊臣秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい)の遺構との伝承もある。初層は入母屋造、二層、三層は寄棟造、柿葺、唐破風を巧みにとり入れた屋根がみごとな調和を見せる。
*黄鶴台:渡り廊下で飛雲閣と連絡している。単層、寄棟造、杮葺。黄鶴台には浴室があり、10畳ほどの板の間に、唐破風の屋形の蒸し風呂と鉄釜などがある。
*覚如上人:1270~1351。親鸞聖人の末娘覚信尼の孫。大谷廟堂の留守職を世襲職と定め、親鸞聖人を第1代に数えて、自らは第3代となった。教団の強化に努める。
*蓮如上人:1415~1499。本願寺第8代。宗派再興の志を抱き、大谷本願寺が破壊された後、近江堅田に移り、さらに越前吉崎に転じて北陸一帯に布教を行うなど、本願寺隆盛の基礎を築いた。
*石山合戦:戦国時代に一大勢力に発展した石山本願寺は、天下統一を目指す織田信長と鋭く対立。11年間にわたり抗争を続けたが、1580(天正8)年に信長と和議を結んだ。
*御影堂(ごえいどう):1636(寛永13)年の再建で、西本願寺の中心となる建物である。単層、入母屋造、本瓦葺、高さ29m、東西48m、南北62m。正面7間の柱はすべて扉を立てて出入りを自由にし、堂内は外陣を内陣よりも広くとり、一度に1,000人以上が参拝できるという。正面中央に安置される親鸞聖人の木像は、聖人の荼毘(だび)の灰を漆にまぜて塗ったものといわれる。
*阿弥陀堂:御影堂の北にある西本願寺の本堂。1760(宝暦10)年の再建で単層、入母屋造、本瓦葺、高さ25m、東西42m、南北45m。本尊に阿弥陀如来の木像、両余間に法然上人と聖徳太子の影像を安置する。
*唐門:境内の南側、北小路通に面している。入母屋造、桧皮葺。前後に雄大な唐破風を付けた四脚門で伏見城の遺構ともいわれる。いたるところを精巧な彫刻と飾り金具で埋められながら華美に流れず、落ち着いた風格がある。両側の透彫は中国の許由(きょゆ)と張良(ちょうりょう)の故事をモチーフにしている。その美しさに日の暮れるのも忘れて見とれてしまうということから「日暮らし門」ともよばれている。
*書院:南能舞台の北にある。単層、入母屋造、本瓦葺、正面18間、側面14間の大建築で現存する最大の書院造である。桃山時代の建築で伏見城の遺構とされてきたが異説もあり、建立について不明の点が多い。内部は対面所と白書院および付属の諸室に分かれている。対面所は203畳敷きの大広間で、門主が公式に門徒に面接するところ。上段と下段に分かれ、その境の欄間に、雲中飛鴻(うんちゅうひこう)の豪華な透彫があるため、「鴻(こう)の間」とも呼ぶ。上段の間には草童遊戯図、商山四皓(しょうざんしこう)図、武帝会西王母(ぶていかいせいおうぼ)図など、中国の事跡を描いた貼付絵で飾られる。下段の間は左右の襖に巨大な老松と紅梅を中心にした豪放な花鳥図があり、いずれも金地に濃彩で描かれている。このほか、天井から金具まですべてに装飾が施され、建築に、絵画に、彫刻に、絢爛豪華な桃山文化の粋が集められた部屋といえる。白書院は対面所上段の間の後方にあたる。上段の間(紫明の間)・二の間・三の間(孔雀の間)に分かれる。対面所より規模は小さいが、3室を仕切る2つの欄間に透彫があり、金地に濃彩の絵で飾られている。北側の狭屋(さや)小壁の「武蔵野図」は月に秋草を描いた繊細な筆致で、他の障壁画にくらべて異色である。白書院の東には装束の間・西には菊の間・雁の間・雀の間が続く。書院の障壁画は、狩野派の絵師・渡辺了慶とその一派の筆になるもので、小室の雀の間は円山応挙門人の円山応瑞とも吉村孝敬の筆ともいわれている。
*南能舞台:単層、切妻造、檜皮葺、桃山時代の能舞台建築の特色をよく表わしている。
*北能舞台:白書院の北にある。単層、前面入母屋造、背面切妻造、檜皮葺、1581(天正9)年建立の墨書がある現存する最古の能舞台で古式をよく伝えている。
*黒書院:白書院と複廊形式の伝廊でつながる。重層、寄棟造、柿葺、江戸時代初期の住宅風書院建築で、書院造に数寄屋造風の趣向を入れている。非公開。
*虎渓の庭:特別名勝・史跡。対面所の東側にある。池泉式枯山水庭園で、おびただしい石組(いしぐみ)をもつ。東北の築山に三尊石の巨石で枯滝をつくり、流れ出る渓流が中央で白砂の池となり、鶴島・亀島を浮べ、切石と自然石で3個の石橋を架け、その間に多数の蘇鉄が植えられている。伏見城内の庭を移したといわれ、桃山時代の特色をよく伝えている。
*飛雲閣:境内の東南隅、滴翠園の池に浮かぶように建つ3層の楼閣。豊臣秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい)の遺構との伝承もある。初層は入母屋造、二層、三層は寄棟造、柿葺、唐破風を巧みにとり入れた屋根がみごとな調和を見せる。
*黄鶴台:渡り廊下で飛雲閣と連絡している。単層、寄棟造、杮葺。黄鶴台には浴室があり、10畳ほどの板の間に、唐破風の屋形の蒸し風呂と鉄釜などがある。
関連リンク | 浄土真宗本願寺派(WEBサイト) |
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参考文献 | 浄土真宗本願寺派(WEBサイト) |
2025年05月現在
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