東本願寺ひがしほんがんじ

京都駅から北へ徒歩約6分、七条通まで上がると、北西側一帯に広大な伽藍が目に入る。正式名称を「真宗本廟」という真宗大谷派の本山である。西本願寺の東に位置し、一般に東本願寺とよばれ、地元では「お東さん」と親しまれる。親鸞聖人の死後、その末娘の覚信尼が1272(文永9)年に東山の大谷に廟堂を建てたことが本願寺の起源。1602(慶長7)年、本願寺の第12代・教如上人*は、徳川家康より烏丸通六条に広大な土地の寄進を受け、御影堂・阿弥陀堂を建立した。これが現在の東本願寺で、この時から本願寺は東と西に分立した。東本願寺はその後、徳川家光からも寺領を寄進され発展。創建以来4度の火災に遭ったが、そのつど再建されてきた。現在の堂宇は1895(明治28)年の再建。
 烏丸通に面して、阿弥陀堂門、御影堂門、菊の門(勅使門)が建つ。高さ27m、正面21m、側面13mの御影堂門は、木造建築の二重門としては世界最大級。御影堂門をくぐると、正面に御影堂*、その左に阿弥陀堂*が建つ。東本願寺の飛地境内である渉成園(枳殻邸)*は東本願寺から東へ徒歩3分。
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みどころ

御影堂門、阿弥陀堂門もさっと通り過ぎないで、見上げて細かい装飾にも注意を払ってほしい。そして目の前に現れた御影堂、阿弥陀堂、とにかく建物の規模の大きさに圧倒される。御影堂は高さ38m、正面76m、側面58mの世界最大級の木造建築物である。内部は927畳敷の大広間で、屋根には17万5,967枚もの瓦が使用されている。阿弥陀堂は、御影堂よりやや規模は小さいが、それでも高さ29m、正面52m、側面47mの大きさである。
 その大きさは、御影堂と阿弥陀堂とを結ぶ廊下に展示されている毛綱と呼ばれる太いロープにも現れている。明治時代の両堂の再建時に、用材が巨大なため引綱がすぐに切れてしまった。そこで多くの女性信者が髪を断ち、巨材を引く毛髪の太綱50余条を寄進したといわれ、その毛綱(総数53本、もっとも大きいものは長さ110m、太さ40cm、重さ約1t)の一部が廊下に展示されている。
 東本願寺では、教えを聞き続けるのが大切だとして、朱印を行っていない。朱印をして満足となり2度と来ないよりも、お参りをして「どんな教えに出逢ったか」が大切で、「教えを聞き続けようと立ち上がる必要がある」というのである。
 2023年春には東本願寺前の市道部分と寺所有の緑地部分が、京都市初の「市民緑地」として一体的に整備された。「お東さん広場」と名付けられた緑地では、イベントなども随時開催。門前の魅力が増し、京都駅からの人の流れも増えそうだ。
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補足情報

*教如上人:1558~1614。1592(文禄元)年、父の死により本願寺12代となったが、翌年豊臣秀吉から隠退を命じられ、弟准如上人が12代となり、教如上人は北殿に住んで裏方と呼ばれた。のち、徳川家康に広大な寺地を寄進され、12代として東本願寺を別立した。
*御影堂:親鸞聖人像を安置する。重層、入母屋造、本瓦葺、正面に聖人像を安置し、その左右に本願寺歴代上人の画像が並ぶ。1895(明治28)年の再建で、2011(平成23)年の親鸞聖人750回忌御遠忌の記念事業として大規模修復がなされた。
*阿弥陀堂:本尊に阿弥陀如来立像を安置する。単層、入母屋造、本瓦葺、御影堂の南にあり、廊下で結ばれている。
*渉成園(枳殻邸):昔は周囲に枳殻(からたち)が植えられていたことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれる。1641(寛永18)年、徳川家光によって土地を寄進され、1653(承応2)年、第13代宣如上人のときに石川丈山が作庭したのが渉成園の始まり。
関連リンク 真宗大谷派東本願寺(WEBサイト)
参考文献 真宗大谷派東本願寺(WEBサイト)
「京都府の歴史散歩 上」山川出版社

2025年05月現在

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