東寺(教王護国寺)
京都駅の西南にあり、境内の東は大宮通、南は九条通に面して築地塀に囲まれている。最寄り駅は近鉄東寺駅で、九条通を西へ徒歩10分。京都駅八条口からも徒歩15分とアクセスがよく、バスの便もよい。
平安京が開かれたときに、羅城門の左右(東西)に置かれた官寺(国立寺院)の一つで、境内は創建当初の伽藍配置のままといわれ、西寺が廃寺となった現在では、平安京の景観を偲ぶ唯一のよりどころである。創建時の建物は失われたが、南大門*から金堂*・講堂*・食堂*(じきどう)と一直線に並ぶ伽藍配置は仏・法・僧*を表している。文化財の多い寺として有名であるが、とりわけ講堂内の彫像群*は貞観(じようがん)彫刻の粋を集めて壮観である。
広い境内に入るにはいくつかの門があり、それぞれが国宝(蓮花門)、重要文化財(北大門、東大門、南大門、北総門、慶賀門)の指定を受けている。伽藍配置から、南大門を拝観のスタート地点とするが、拝観料が必要な区域で分断されてしまうので、灌頂院*と後で訪れる講堂、金堂は外観を見ながら、まずは御影堂(大師堂)*と食堂を訪れる。このあと有料区域にある五重塔*、金堂と講堂をじっくりと拝観する。さらに現在、東寺に残る最も古い建物で周囲に堀をめぐらす校倉造の宝蔵*、宝物館*を訪れる。
794(延暦13)年の平安遷都の2年後、東寺の造営が始まったが工事は容易にはかどらず、ようやく金堂が落成した。823(弘仁14)年、嵯峨天皇から空海に下賜され、空海は東寺を真言密教の根本道場に定めたとされる。当初の伽藍配置は現在のものとほぼ同じだが、講堂と金堂の周囲を廻廊がめぐりこの2つの建物は繋がっていたという。空海は、大日如来を中心とした21躯の仏像で密教の教えを表す「立体曼荼羅」を講堂内部に展開させた。21躯のうち16躯が国宝、5躯が重要文化財に指定され、わが国密教彫刻の最古の像として極めて貴重なものである。
平安末期、源平の争いで伽藍は荒廃した。この復興に努力したのが文覚(もんがく)上人*である。源頼朝の援助を得て建久年間(1190~1199)に伽藍の修理、再建が行われた。つづいて宣陽門院*により「御影供」、「生身供」が創始され宗教活動も活発になった。応仁の乱などの戦国時代の寺院受難のときもここだけは聖地として破壊からまぬがれたが、1486(文明18)年、土一揆*(つちいっき)の群集が境内に立てこもり、ついに伽藍のほとんどを焼失するという創建以来最大の災害を引き起こした。現在の主な伽藍はその後の延徳年間(1489~1492)から江戸時代初期にかけて再建されたもの。
毎月21日は弘法大師空海の縁日で、「弘法さん」と親しまれる弘法市*が開かれる。広い東寺の境内が所狭しと多くの露店と人で賑わう。
平安京が開かれたときに、羅城門の左右(東西)に置かれた官寺(国立寺院)の一つで、境内は創建当初の伽藍配置のままといわれ、西寺が廃寺となった現在では、平安京の景観を偲ぶ唯一のよりどころである。創建時の建物は失われたが、南大門*から金堂*・講堂*・食堂*(じきどう)と一直線に並ぶ伽藍配置は仏・法・僧*を表している。文化財の多い寺として有名であるが、とりわけ講堂内の彫像群*は貞観(じようがん)彫刻の粋を集めて壮観である。
広い境内に入るにはいくつかの門があり、それぞれが国宝(蓮花門)、重要文化財(北大門、東大門、南大門、北総門、慶賀門)の指定を受けている。伽藍配置から、南大門を拝観のスタート地点とするが、拝観料が必要な区域で分断されてしまうので、灌頂院*と後で訪れる講堂、金堂は外観を見ながら、まずは御影堂(大師堂)*と食堂を訪れる。このあと有料区域にある五重塔*、金堂と講堂をじっくりと拝観する。さらに現在、東寺に残る最も古い建物で周囲に堀をめぐらす校倉造の宝蔵*、宝物館*を訪れる。
794(延暦13)年の平安遷都の2年後、東寺の造営が始まったが工事は容易にはかどらず、ようやく金堂が落成した。823(弘仁14)年、嵯峨天皇から空海に下賜され、空海は東寺を真言密教の根本道場に定めたとされる。当初の伽藍配置は現在のものとほぼ同じだが、講堂と金堂の周囲を廻廊がめぐりこの2つの建物は繋がっていたという。空海は、大日如来を中心とした21躯の仏像で密教の教えを表す「立体曼荼羅」を講堂内部に展開させた。21躯のうち16躯が国宝、5躯が重要文化財に指定され、わが国密教彫刻の最古の像として極めて貴重なものである。
平安末期、源平の争いで伽藍は荒廃した。この復興に努力したのが文覚(もんがく)上人*である。源頼朝の援助を得て建久年間(1190~1199)に伽藍の修理、再建が行われた。つづいて宣陽門院*により「御影供」、「生身供」が創始され宗教活動も活発になった。応仁の乱などの戦国時代の寺院受難のときもここだけは聖地として破壊からまぬがれたが、1486(文明18)年、土一揆*(つちいっき)の群集が境内に立てこもり、ついに伽藍のほとんどを焼失するという創建以来最大の災害を引き起こした。現在の主な伽藍はその後の延徳年間(1489~1492)から江戸時代初期にかけて再建されたもの。
毎月21日は弘法大師空海の縁日で、「弘法さん」と親しまれる弘法市*が開かれる。広い東寺の境内が所狭しと多くの露店と人で賑わう。

みどころ
桓武天皇により794(延暦 13)年に平安京に遷都され、2年後に平安京の正門、羅城門を挟んで東西に東寺と西寺が創建された。両寺は朝廷が造営した官寺、つまり国立の寺院にふさわしい荘厳な姿が求められた。現在では西寺は廃寺となり公園になっていて、碑が立っている。東寺は創建当初の位置そのままで、都の正面で威風堂々とその姿を残しており、往時の平安京がその先に開けていたことを想起したい。
新幹線で京都を訪れると、いつも出迎えてくれるランドマークのような五重塔。間近に接すると古塔では日本最高の高さであることがよくわかる。不二桜*が咲いたときには、サクラと五重塔がみごとな景観を醸し出し、カメラのシャッターチャンスとなる。境内は広く、金堂・講堂・宝物館と見所が多く、国宝・重要文化財は目白押しである。数多くの露店で賑わう、毎月21日に開かれる弘法市もおすすめだ。
さらに塔頭の観智院を拝観することを勧めたい。後宇多法皇の発願により1359(延文4)年に創建。国宝の客殿は1605(慶長10)年に再建され、宮本武蔵筆と伝える襖絵「鷲の図」と「竹林の図」が残る。客殿前に枯山水の「長者の庭」が広がる。本堂に安置される本尊・五大虚空蔵菩薩像(重文)は、象やクジャクなどの鳥獣の背に乗った五躯の像である。
新幹線で京都を訪れると、いつも出迎えてくれるランドマークのような五重塔。間近に接すると古塔では日本最高の高さであることがよくわかる。不二桜*が咲いたときには、サクラと五重塔がみごとな景観を醸し出し、カメラのシャッターチャンスとなる。境内は広く、金堂・講堂・宝物館と見所が多く、国宝・重要文化財は目白押しである。数多くの露店で賑わう、毎月21日に開かれる弘法市もおすすめだ。
さらに塔頭の観智院を拝観することを勧めたい。後宇多法皇の発願により1359(延文4)年に創建。国宝の客殿は1605(慶長10)年に再建され、宮本武蔵筆と伝える襖絵「鷲の図」と「竹林の図」が残る。客殿前に枯山水の「長者の庭」が広がる。本堂に安置される本尊・五大虚空蔵菩薩像(重文)は、象やクジャクなどの鳥獣の背に乗った五躯の像である。

補足情報
*南大門:蓮華王院(三十三間堂)の西門であったのを、1895(明治28)年に移築した。切妻造、本瓦葺、3間1戸の雄大な八脚門である。蟇股(かえるまた)の鳥獣の彫刻などに桃山建築の特色がうかがえる。
*金堂:1603(慶長8)年、豊臣秀頼の再建。正面7間、側面5間、重層、入母屋造、本瓦葺。平面の大きさは創建時のままである。下層正面の屋根の中央を一段高くしているのは奈良の東大寺大仏殿の古制にならったものといわれる。下層に天竺様の挿肘木(さしひじき)を用い、上層の斗拱(ときょう)に和様四手先を組むなど、細部に和様・唐様・天竺様の手法を巧みに折衷している。内部は四半(しはん)瓦敷の内・外陣からなり、内陣後方の須弥壇に薬師三尊像(桃山時代)を安置する。
*講堂:1491(延徳3)年再建。正面9間、側面4間、単層、入母屋造、本瓦葺の純和様建築。金堂と同じく旧堂の位置に平面の大きさをそのまま受け継いでいる。内部には立体曼荼羅の世界が広がる。
*食堂(じきどう):講堂の北にある。創建は平安時代。江戸時代に再建されたが1930(昭和5)年に焼失、現在のものは1933(昭和8)年の再建。もとは聖僧文殊坐像(貞観時代)・地蔵菩薩立像(貞観時代)・千手観音立像(藤原時代)を安置していた。正面7間、側面4間、単層、入母屋造。
*仏・法・僧:金堂は「仏」に出会う場所。講堂は「法」に出会う場所、食堂は「僧」たちが切磋琢磨する場所。
*講堂内の彫像群:金堂が顕教(けんきょう)系薬師如来坐像を本尊とするのとはまったく対照的に、内陣須弥壇は空海の密教思想を存分に盛りこんだ羯磨曼荼羅(かつままんだら)が21躯の彫像によって構成されている。このうち、16躯が国宝、5躯が国重要文化財。中央に大日如来を中心とする五智如来、右に五大菩薩と左に五大明王を配し、両端に梵天(ぼんてん)と帝釈天、四隅に四天王を巡らす配置は奈良時代には見られなかった新形式である。この諸尊は護国のための仁王経曼荼羅を具体的に表わしたもので、教王護国寺の寺号もこの講堂の構成に基づくものとされる。中央の大日如来は室町時代、四方の如来と五大菩薩の中尊は江戸時代の補作だが、残り16躯は創建当時のものである。いずれも一木造漆箔(しっぱく)または彩色、貞観彫刻の秀作。ことに五大明王像は密教彫刻の精粋といわれる傑作である。
*灌頂院:儀式を行うための堂で、床は石畳、内部に仏像は安置されていない。密教の奥義を伝えるための「伝法灌頂」や、鎮護国家、五穀豊穰、国土豊穰を祈願する「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」などが行われる。現在の建物は、1634年(寛永11年)、弘法大師八百年御遠忌のときに徳川家光によって再建された。
*御影堂(大師堂):境内の西北にある。正面7間、側面4間、単層、入母屋造、三方に破風をもつ檜皮葺の屋根。前堂・後堂に分かれた複雑な形の住宅風建築で、外面に蔀戸(しとみど)や妻唐戸を使って寝殿造の形式を見せている。前堂の弘法大師坐像(鎌倉時代、国宝)には毎朝6時、食事を捧げる「生身供(しょうじんく)」や、毎月21日に空海のご遺徳を偲ぶ「御影供」が行われている。後堂には不動明王坐像(貞観時代、国宝)が安置されている。
*五重塔:1644(寛永21)年、徳川家光の再建。石壇上に立ち、各層3間四方、和様の復古建築。高さ約55mは、日本の木造建造物で最も高い。初層内部は板敷で中央に須弥壇を設け、大日如来に見立てた心柱を守るように金剛界四仏が鎮座する。格天井を張り、周囲の板壁には真言八祖像などがいずれも極彩色で描かれている。初層内部は春と秋の特別拝観時などに、一般公開される。
*宝蔵:食堂の東にあり、周囲に堀を巡らす。3間四方、校倉造、平安時代の建築。
*宝物館:春と秋、それぞれ約2か月、東寺に伝わる数多くの文化財を特別公開する。彫刻では、もと羅城門にあったと伝えられる国宝・兜跋毘沙門天立像をはじめ、もと食堂の本尊・千手観音立像など、絵画では真言七祖像、両界曼荼羅図など、工芸では弘法大師請来の密教法具類などの収蔵品から公開される。
*東宝記:東寺の縁起・変遷を記す。8巻。南北朝時代に成立した東寺史として重要な書物である。
*文覚上人:生没年不詳。鎌倉初期の真言宗の僧。上西門院の北面の武士であったが、源渡の妻、袈裟に横恋慕したあげく、誤って殺してしまったため、出家した。荒行を積み、高雄山寺(神護寺)の再興に力を尽くしたが、伊豆に流され、源頼朝の知遇を得た。のち佐渡、対馬に配流され、没す。
*宣陽門院:1181~1252。 後白河法皇第6皇女。法皇から莫大な荘園を譲られ、政治にも参与。
*土一揆:室町時代に盛んに行われた土民の支配権力に対する闘争。年貢の減免・借金の棒引き・代官の交替などを要求して強訴の形で行われ、暴動化して酒屋土倉を襲ったりした。
*弘法市:835年(承和2年)3月21日(新暦では4月)に入定された弘法大師空海の報恩感謝のために毎月21日に行われる法会を「御影供」という。910年(延喜10年)に灌頂院で始められ、1240年(延応2年)からは御影堂でも行われるようになった。いつしか多くの人が集まるような「弘法市」となり、1,000店近くの露店が並び、大勢の人でにぎわう。
*不二桜(ふじざくら):盛岡市の旧家にあったサクラを、1994(平成6)年に鈴鹿市の農園に移植。空海の唐からの帰朝1,200年を記念して、2006(平成18)年に東寺に移植された。樹齢130年を超えるといわれ、高さ13m、枝張り約10m。紅シダレサクラで、サクラの名称は、空海の教えである「不二(ふに)の教え」からである。夜桜のライトアップも行われ、人気がある。
*金堂:1603(慶長8)年、豊臣秀頼の再建。正面7間、側面5間、重層、入母屋造、本瓦葺。平面の大きさは創建時のままである。下層正面の屋根の中央を一段高くしているのは奈良の東大寺大仏殿の古制にならったものといわれる。下層に天竺様の挿肘木(さしひじき)を用い、上層の斗拱(ときょう)に和様四手先を組むなど、細部に和様・唐様・天竺様の手法を巧みに折衷している。内部は四半(しはん)瓦敷の内・外陣からなり、内陣後方の須弥壇に薬師三尊像(桃山時代)を安置する。
*講堂:1491(延徳3)年再建。正面9間、側面4間、単層、入母屋造、本瓦葺の純和様建築。金堂と同じく旧堂の位置に平面の大きさをそのまま受け継いでいる。内部には立体曼荼羅の世界が広がる。
*食堂(じきどう):講堂の北にある。創建は平安時代。江戸時代に再建されたが1930(昭和5)年に焼失、現在のものは1933(昭和8)年の再建。もとは聖僧文殊坐像(貞観時代)・地蔵菩薩立像(貞観時代)・千手観音立像(藤原時代)を安置していた。正面7間、側面4間、単層、入母屋造。
*仏・法・僧:金堂は「仏」に出会う場所。講堂は「法」に出会う場所、食堂は「僧」たちが切磋琢磨する場所。
*講堂内の彫像群:金堂が顕教(けんきょう)系薬師如来坐像を本尊とするのとはまったく対照的に、内陣須弥壇は空海の密教思想を存分に盛りこんだ羯磨曼荼羅(かつままんだら)が21躯の彫像によって構成されている。このうち、16躯が国宝、5躯が国重要文化財。中央に大日如来を中心とする五智如来、右に五大菩薩と左に五大明王を配し、両端に梵天(ぼんてん)と帝釈天、四隅に四天王を巡らす配置は奈良時代には見られなかった新形式である。この諸尊は護国のための仁王経曼荼羅を具体的に表わしたもので、教王護国寺の寺号もこの講堂の構成に基づくものとされる。中央の大日如来は室町時代、四方の如来と五大菩薩の中尊は江戸時代の補作だが、残り16躯は創建当時のものである。いずれも一木造漆箔(しっぱく)または彩色、貞観彫刻の秀作。ことに五大明王像は密教彫刻の精粋といわれる傑作である。
*灌頂院:儀式を行うための堂で、床は石畳、内部に仏像は安置されていない。密教の奥義を伝えるための「伝法灌頂」や、鎮護国家、五穀豊穰、国土豊穰を祈願する「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」などが行われる。現在の建物は、1634年(寛永11年)、弘法大師八百年御遠忌のときに徳川家光によって再建された。
*御影堂(大師堂):境内の西北にある。正面7間、側面4間、単層、入母屋造、三方に破風をもつ檜皮葺の屋根。前堂・後堂に分かれた複雑な形の住宅風建築で、外面に蔀戸(しとみど)や妻唐戸を使って寝殿造の形式を見せている。前堂の弘法大師坐像(鎌倉時代、国宝)には毎朝6時、食事を捧げる「生身供(しょうじんく)」や、毎月21日に空海のご遺徳を偲ぶ「御影供」が行われている。後堂には不動明王坐像(貞観時代、国宝)が安置されている。
*五重塔:1644(寛永21)年、徳川家光の再建。石壇上に立ち、各層3間四方、和様の復古建築。高さ約55mは、日本の木造建造物で最も高い。初層内部は板敷で中央に須弥壇を設け、大日如来に見立てた心柱を守るように金剛界四仏が鎮座する。格天井を張り、周囲の板壁には真言八祖像などがいずれも極彩色で描かれている。初層内部は春と秋の特別拝観時などに、一般公開される。
*宝蔵:食堂の東にあり、周囲に堀を巡らす。3間四方、校倉造、平安時代の建築。
*宝物館:春と秋、それぞれ約2か月、東寺に伝わる数多くの文化財を特別公開する。彫刻では、もと羅城門にあったと伝えられる国宝・兜跋毘沙門天立像をはじめ、もと食堂の本尊・千手観音立像など、絵画では真言七祖像、両界曼荼羅図など、工芸では弘法大師請来の密教法具類などの収蔵品から公開される。
*東宝記:東寺の縁起・変遷を記す。8巻。南北朝時代に成立した東寺史として重要な書物である。
*文覚上人:生没年不詳。鎌倉初期の真言宗の僧。上西門院の北面の武士であったが、源渡の妻、袈裟に横恋慕したあげく、誤って殺してしまったため、出家した。荒行を積み、高雄山寺(神護寺)の再興に力を尽くしたが、伊豆に流され、源頼朝の知遇を得た。のち佐渡、対馬に配流され、没す。
*宣陽門院:1181~1252。 後白河法皇第6皇女。法皇から莫大な荘園を譲られ、政治にも参与。
*土一揆:室町時代に盛んに行われた土民の支配権力に対する闘争。年貢の減免・借金の棒引き・代官の交替などを要求して強訴の形で行われ、暴動化して酒屋土倉を襲ったりした。
*弘法市:835年(承和2年)3月21日(新暦では4月)に入定された弘法大師空海の報恩感謝のために毎月21日に行われる法会を「御影供」という。910年(延喜10年)に灌頂院で始められ、1240年(延応2年)からは御影堂でも行われるようになった。いつしか多くの人が集まるような「弘法市」となり、1,000店近くの露店が並び、大勢の人でにぎわう。
*不二桜(ふじざくら):盛岡市の旧家にあったサクラを、1994(平成6)年に鈴鹿市の農園に移植。空海の唐からの帰朝1,200年を記念して、2006(平成18)年に東寺に移植された。樹齢130年を超えるといわれ、高さ13m、枝張り約10m。紅シダレサクラで、サクラの名称は、空海の教えである「不二(ふに)の教え」からである。夜桜のライトアップも行われ、人気がある。
関連リンク | 東寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
東寺(WEBサイト) 「京都<千年の都>歴史」岩波新書 「京都府の歴史散歩 中」山川出版社 |
2025年05月現在
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