鹿苑寺(金閣寺)
正式名称は鹿苑寺だが一般に金閣寺の名で知られる。京都駅から北へバスで約50分。衣笠山の東、背後に大文字山があり、自然を巧みに取り入れた境内の西に、寺の通称の由来ともなった金閣がさん然と鏡湖池(きょうこち)に姿を映している。金閣が再建とはいえ、そのみごとに一体化した建築美と庭園美が室町時代北山文化*の面影を伝えている。そのほか禅寺特有の簡潔な美しさを見せる方丈*や庫裏・夕佳亭*(せっかてい)・不動堂などの建物が立つ。金閣の北側は銀河泉(ぎんがせん)、巌下水(がんかすい)、龍門滝や安民沢(あんみんたく)、虎渓橋へ至る石段(通行不可)の左右に組まれた金閣寺垣など変化に富む。
13世紀の初め、西園寺公経(きんつね)が豪勢な山荘を営んでいたが、その後長らく荒廃したのを、足利義満*が譲り受け、1397(応永4)年にその権力と財力で別荘北山殿*を造営した。ここで有名な北山文化を生み出した。1408(応永15)年義満の死後、義満の遺言によって臨済宗の寺院に改め、義満の法号にちなんで鹿苑寺と号した。はじめは多くの堂塔があったと伝えるが、応仁・文明の乱、つづく永禄の変*の兵火によって舎利殿を除くおもな建物を焼失した。方丈・書院は江戸時代に再建される。
中心をなす舎利殿(金閣)は方丈の西、鏡湖池に臨む3層の楼閣をいう。北山文化唯一の遺構であったが、1950(昭和25)年に放火で失い*、1955(昭和30)年に再建された。初層は法水院(ほっすいいん)と称し、平安貴族の住宅様式である寝殿造、2層は潮音洞(ちょうおんどう)といい鎌倉時代の武家社会に広がった武家造、3層は究竟頂(くっきょうちょう)といい桟唐戸・花頭窓を用いた唐様の仏間で、公家と武家を超越する究極の位を象徴する。初層に釣殿を結んでいる。第2層と3層に金箔を施した絢爛たる豪華さのなかにも、宝形造の緩い勾配の屋根や深い軒に優雅さを兼ね備えている。1987(昭和62年)、修復が行われ金箔が全面張り替えられた。
13世紀の初め、西園寺公経(きんつね)が豪勢な山荘を営んでいたが、その後長らく荒廃したのを、足利義満*が譲り受け、1397(応永4)年にその権力と財力で別荘北山殿*を造営した。ここで有名な北山文化を生み出した。1408(応永15)年義満の死後、義満の遺言によって臨済宗の寺院に改め、義満の法号にちなんで鹿苑寺と号した。はじめは多くの堂塔があったと伝えるが、応仁・文明の乱、つづく永禄の変*の兵火によって舎利殿を除くおもな建物を焼失した。方丈・書院は江戸時代に再建される。
中心をなす舎利殿(金閣)は方丈の西、鏡湖池に臨む3層の楼閣をいう。北山文化唯一の遺構であったが、1950(昭和25)年に放火で失い*、1955(昭和30)年に再建された。初層は法水院(ほっすいいん)と称し、平安貴族の住宅様式である寝殿造、2層は潮音洞(ちょうおんどう)といい鎌倉時代の武家社会に広がった武家造、3層は究竟頂(くっきょうちょう)といい桟唐戸・花頭窓を用いた唐様の仏間で、公家と武家を超越する究極の位を象徴する。初層に釣殿を結んでいる。第2層と3層に金箔を施した絢爛たる豪華さのなかにも、宝形造の緩い勾配の屋根や深い軒に優雅さを兼ね備えている。1987(昭和62年)、修復が行われ金箔が全面張り替えられた。

みどころ
順路を明確にした周遊コースになっている。そのため、鏡湖池に臨む金箔の舎利殿の写真をとる見どころに多くの人が集まっている。舎利殿を十分堪能したあと、人影のすくなくなった夕佳亭(せっかてい)・不動堂などの建物をゆっくりとみてほしい。案外知られていないのが、鹿苑寺は、相国寺の境外塔頭であるということ。

補足情報
*北山文化:室町時代、3代将軍足利義満が営んだ北山殿に代表される文化。伝統的公家文化と新しく起こった武家文化を融合し、禅宗の影響を受けている。義政の東山文化に影響を与えた。
*方丈:1602(慶長7)年、庫裏とともに新造されたものを、1678(延宝6)年に後水尾上皇の寄進で建て替えたもの。
*夕佳亭(せっかてい):金森宗和(かなもりそうわ)*好みの茶室。数奇屋造で床柱に南天、違棚に萩が用いられている。
*足利義満:室町幕府第3代将軍。南北朝内乱を統一し、幕府の全盛を築く。明との勘合貿易をひらく。
*北山殿:金色に輝く舎利殿、それと空中廊下で結ばれた会所の天鏡閣、義満の居所である北御所(紫宸殿)、妻子の居住する南御所などがあった。
*永禄の変:1565(永禄8)年、室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された。
*放火:犯人は当時の学僧。この事件を題材にした小説に三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』『金閣炎上』がある。
*金森宗和:1584~1656。江戸時代初めの茶人。宗和流の祖。飛騨高山の城主金森可重の長子で、のち罪を得て蟄居、剃髪をして茶事をもっぱらにした。
*庭園(特別名勝・特別史跡)は、足利義満が西園寺家の庭園に手を加え、好みのままに造園させた池泉回遊式庭園で、室町時代の代表作。中心になる鏡湖池は浄土庭園の形式を用い、九山八海石を代表とする名石奇岩を多数配し、衣笠山を借景に大和絵のような美しさをかもしだしている。
*方丈:1602(慶長7)年、庫裏とともに新造されたものを、1678(延宝6)年に後水尾上皇の寄進で建て替えたもの。
*夕佳亭(せっかてい):金森宗和(かなもりそうわ)*好みの茶室。数奇屋造で床柱に南天、違棚に萩が用いられている。
*足利義満:室町幕府第3代将軍。南北朝内乱を統一し、幕府の全盛を築く。明との勘合貿易をひらく。
*北山殿:金色に輝く舎利殿、それと空中廊下で結ばれた会所の天鏡閣、義満の居所である北御所(紫宸殿)、妻子の居住する南御所などがあった。
*永禄の変:1565(永禄8)年、室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された。
*放火:犯人は当時の学僧。この事件を題材にした小説に三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』『金閣炎上』がある。
*金森宗和:1584~1656。江戸時代初めの茶人。宗和流の祖。飛騨高山の城主金森可重の長子で、のち罪を得て蟄居、剃髪をして茶事をもっぱらにした。
*庭園(特別名勝・特別史跡)は、足利義満が西園寺家の庭園に手を加え、好みのままに造園させた池泉回遊式庭園で、室町時代の代表作。中心になる鏡湖池は浄土庭園の形式を用い、九山八海石を代表とする名石奇岩を多数配し、衣笠山を借景に大和絵のような美しさをかもしだしている。
関連リンク | 金閣寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
金閣寺(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 上」山川出版社 |
2025年05月現在
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